2018/09/14(金)ソワレ
彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉
Noism1×SPAC
劇的舞踊vol.4『ROMEO&JULIETS』
雄弁な身体と、響く言葉の旋律
舞踊×演劇で描く新たな“ロミオとジュリエット”の物語
演出振付:金森穣
音楽:S.プロコフィエフ《Romeo & Juliet》
衣裳:YUIMA NAKAZATO
美術:須長檀、田根剛(Noismレパートリーより)
原作:W.シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(河合祥一郎訳より)
出演:Noism1+SPAC
Noism1=井関佐和子、中川賢、池ヶ谷奏、吉﨑裕哉、浅海侑加、チャン・シャンユー、
井本星那、鳥羽絢美*、西岡ひなの*、山田勇気**、金森穣** (*準メンバー、**特別出演)
SPAC=大内米治、貴島豪、鈴木真理子、武石守正、舘野百代、野口俊丞、布施安寿香、三島景太
(Noism1×SPAC 劇的舞踊vol.4『ROMEO&JULIETS』埼玉公演 - Noism Web Siteより)
チームC(奇数)
患者190057335973 グレゴリー/キャピュレット …貴島豪
患者377109331793 サムソン/パリス …三島景太
患者573077913773 キャピュレット夫人 …布施安寿香
患者793591173539 ティボルト …中川賢
患者975133153975 ジュリエット …浅海侑加
患者173391533377 ジュリエット …鳥羽絢美
患者375133153975 ジュリエット …西岡ひなの
患者573301533377 ジュリエット …井本星那
患者773391533377 ジュリエット …池ヶ谷奏
チームM(偶数)
患者284608826466 エイブラハム/召使 …野口俊丞
患者484608826466 エイブラハム/召使 …大内米治
患者668022860242 ベンヴォーリオ …吉﨑裕哉
患者846682804446 ロミオ …武石守正
患者062284006846 マキューシオ …チャン・シャンユー
患者204266880428 ポットパン/ピーター/バルサザー …山田勇気
看護師 乳母/コロス/キャピュレット夫人 …舘野百代
看護師 乳母/コロス/モンタギュー夫人 …鈴木真理子
看護師 ロザライン …井関佐和子
医師 ロレンス …金森穣
ああ〜これは難しい〜
私は舞踏を見に行くと思っていたから気持ちがズレるのかな?
ん〜なんとも難しい…役者さんが浮くこともカルメン同様に無いんだけど
言葉を聞いて素敵だなと思う心と
舞踏を見て素敵だなと思う心とが分かれてて一作品で感想が分かれてしまう…
これでいいのかな?迷える。
Noismが気になるきっかけが「中国の不思議な役人」だったので
踊りに物語が入っているの、私はそもそも好きな方なんです。
ロミジュリに思い入れあるからか、
病院というテーマで暗すぎる絶望のロミジュリだからか、
言葉で説明のシーンが多く思ったものと違ったからか、
考えられる理由は幾らでもあるけれど正直私にはコレジャナイ感がありました。
あくまで私の感想で、検索してみたら絶賛されている方もいたので
やっぱり自分がそれまでに触れてきたものにもよるのかもしれない、とも思いました。
あ、でも本当にキャピュレット卿の意固地な感じや
キャピュレット夫人のティボルトを亡くして(オフィーリアのように)心あらずになるのとか
病院という設定でそういうのもありだなぁと思えました…まぁだから基本皆病んでるけれども。
世界あるいは地球上は病院で、その中に人間は住んでいるのではないか、私は、この視点から、多くの舞台を創ってきた。ということは、多くの戯曲作家は人間は病人であるという視点から、人間を観察し、理解し、それを戯曲という形式の中に表現してきたのだ、と私が見做していることになる。戯曲作家の中には、それは困った考えだという人もいるかもしれないが、優れた劇作家の作品はこういう視点からの解釈やその舞台化を拒まないというのが、私の信念になっている。それゆえ、ここ数年の私の演出作品は舞台上のシチュエーションがほとんど病院になっている。それも単なる病院ではなく、精神病院である。
病院という設定が鈴木忠志さんの影響というのを観劇後に知ったのだけど
まぁ私はだから苦手ともいえるかもしれない。
とても単純に痛いのも、苦しいのも苦手です、だから。
でもこの病院という設定は病院であることで浮かび上がるものもあるなと感じます。
呟くほど全世界発信するないようじゃないと思って言えなかったけど
ロミオとジュリエットは好きだけれど派生したウエストサイド物語等々も含めて
いかにおまけして見てもロミオが本当に好きじゃない。
どうしても好きになれそうもないです。
まず私には登場が理解できない。
森歩いて運命の人に焦がれるも「それは誰なんだい?」と問えばまだ見ぬ人と言う…完璧おかしい。
よくロミオ役は見目麗しい方がしますけど例えどんなに美しかろうが思考が興ざめすぎる。
だからロミオが車椅子にひかれて鬱々と登場した時はおかしいと感じる気持ちと見ている光景は等しいと思いました。
車椅子なのは別として。
よくロミジュリは誰もが知ってると言われてる常識的な存在として言われている気がするけど、
誰にだって初めてロミジュリに触れることは必ずあるわけで。
それを思うとお話が分かるのかな?と思います。
初めてじゃないから気づけないし気になる。
ロザラインのとこ「えっ」って聞こえたもんなぁ。
→ロザラインについては今までの公演とも演出が違っていたらしいので勘違いかもです。
ロザライン、バレエでは実際にいるらしいですけど演劇では最初に名前に出てくるだけ。
そのロザラインが献身的にロボットのように心見せず尽くすロミオに
感情的にジュリエットを模倣して踊りあう気持ちのすれ違った気持ち悪さを感じます。
車椅子でのキスなどジュリエットとロミオでは爽やかに感じられた振りも
ロザラインは狂気なのに美しい…だから恐ろしいですよね。
ロザラインは森にいるロミオがまだ見ぬ恋人に焦がれている会話に出てくる名前だったと思う。
ロミオの車椅子を押してくるのはロザラインだし、キャピュレット夫人が話しかけているわけではないけど同空間にいるのもロザライン。
ロザラインがいるとこでキャピュレット婦人はロミオの所在問う。
動きは機械的で感情の読めないロボットのよう。
ロザラインがジュリエットのバルコニーをなぞるのは欲をとても感じます。
カルメンの(もっと切なさを感じたけど)ミカエラのように報われぬ愛という気もする。
今までロミジュリはティボルトが好きなんだけど、
ここまで鬱々とした世界だと圧倒的元気でパッと陽気になれるマキューシオいいなぁと思えました(*´ω`*)
マキュかわいい。
道化のようにひたすら明るい、暗く重い空気感に一点の陽。
明るすぎるというのは不自然なわけだから違和感なのかもですが
拠り所にしたくなるくらいには心地良く明るくて惹かれる。
明るいってことは闇なのかもなぁと今思った。
でもやっぱ食器ガッシャーンやるティボルトも激情って感じで好きなんだなぁ。
ティボルトはキャピュレット家で育ち、キャピュレットの正義のまま行動しているわけだけど
そこがピュアであり清々しさを感じる所以かもしれない。
ミュージカルはキャピュレットの正義と自身の間で揺れていたけれど
個人的にはNoismティボルトには揺れは見えないかなと思いました。
まぁだから怖いとも言える。
激情と正義の男。
マキューシオは明るいと思ったからだけどティボルトはそのまま、
求められた姿であることは結構気を張るし大変なんじゃないかって思う。
大きなことじゃなくても空気を読む類で
今、私が思ってることを口に出さない方がいいなとかあるもんね。
モンタギュー家とキャピュレット家(冒頭)、
ミュージカルRJフランス版が青のモンタギュー、赤のキャピュレット、白の死のダンサーで国旗のようにはっきりと分かれていたのに比べて
患者が白一色の中、奇数偶数の対立が見えてくるのが好きでした!
踊り、対立はあるけど役で分かれているけど役の性格ではない患者というのが面白いなぁと思います^^
口上をしている最中なわけだからそうなのかもですが概念だけみたいな。
ここでの力強くもしなやかな踊り、身体大きく使ってらっしゃる吉﨑さんの動きが好きだなぁと思いました!
マキューシオとティボルトの争い場面の音楽が好きなんだけど
あれバレエだとダンサーさんに合わせてテンポ遅くなってたのがショックで。
でも今回見たら素早い戦いのテンポで争っててすごい胸高鳴った!!
音楽がバリバリ好き~プロコフィエフめっちゃ好き~
仮面舞踏会の後ろで食事をしているんですがそれがレオナルドダヴィンチ「最後の晩餐」のようで死を感じます。
ロミオの車椅子を押すベンヴォ―リオの暗さと素朴さ。
ベンヴォーリオはここの場面とは踊りの表情が違って愛の死のような静かな印象でした。
なかなかないから?と思ったところ書きとめとく。
単純に大公の存在。
ロミジュリ詳しくないけど知らなくはないなとエンド見ていて思ったんだけど、
初見の人には大公がいないといけないのかもしれない、だけどすごい違和感を感じる。
これが意図的なのか分からないけど。
詳しくないから書くのどうかとも思うんですがウルトラマンのバルタン星人が何故か浮かびます。
カタカナト漢字交ジリノ文章というより
監視カメラのように多方面から舞台を見つめるのは自分には出来ないことですけど
大公が黒い人型でカタカナ漢字の文字出てくるのは舞台なはずでは?感が強いです。
SNSというのがよく出てくることを思うと目の前では発言せず、ネットに書き込むとかそういうのが浮かぶ。
そういえばジュリエットが5人いるから5回バルコニーのやり取りあるみたくなっててペン子さんみたいだなと思いました。
精神分裂。
最近はパンフ内等々でSNSがよく出てくるなぁという感じを受けます。
確かに何個もアカウントを持っていて使い分けているのは一個人がいくつにも分けられているような、いくつも顔があるような気はします。
元々いくつもの側面が合さっていた個人の側面が分かりやすく目に見えていると言えるんじゃないかとも思うけど。
私がそうだからそういう人もいるのかもですけどSNSで見せる部分は現実では言えないことというの。
何でもかんでも話せたらいいんでしょうけど興味がない人に話せない話、前提を経た上での話
頑張って理解しようとしてくれる人もいるけど話し合うには至らない。
そうすると壁打ち(=呟く)のは楽ですよね。
ちなみに一から説明するのが嫌いなわけではないです。
最近の舞台告知でもかなり違和感覚えるんだけど
Twitterが情報の周り早いのは重々承知してるんですが
告知当初から変更があった時なんでツイッターでしか告知しないんだろう?
あれおかしいですよね、Twitterでしか窓口ないなら分かるけど他経路で買った方々への周知は?とよく思います。
Twitterのこわいところに一ツイートだけ抜き取られて拡散される可能性があるということがあります。
一覧性のなさは不便だし、意図がすり替わってしまうこともあるよね。
でもリンクを踏むというワンクッションあると飛ばなくなっちゃうんですよね難儀。
あと書いてて思うけどブログはもう古い感覚あります、私は好きなんで書くけど。