珈琲とmilkのパーセンテージ

苦かったり甘かったりするので無機質の筆や箱で切り取ってみる。

ジーザス・クライスト=スーパースター ジャポネスク-2023/07/12-

2023年7月12日(夜)公演

自由劇場(浜松町・竹芝)



キャストさん

ジーザス・クライスト 神永 東吾

イスカリオテのユダ 佐久間 仁

マグダラのマリア 江畑 晶慧

カヤパ(大司教) 高井 治

アンナス(カヤパの義父) 日浦 眞矩

司祭1 佐藤 圭一

司祭2 内海 雅智

司祭3 真田 司

シモン(使徒) 本城 裕二

ペテロ(使徒) 辻 雄飛

ピラト(ローマの総督) 村 俊英

ヘロデ王 大森 瑞樹

 

【男性アンサンブル】

健心 安東 翼 大萬 昇太 木谷 光

劉 昌明 佐藤 幸治 平田 郁夫 鈴木 智之

横井 漱 長尾 哲平 葵野 貴元 鈴木 貴雅 平山 祥

【女性アンサンブル】

加藤 あゆ美 坂井 菜穂 菩提 行

小島 由夏 廣本 則子 辻 茜 小松 真美

濵嶋 紗穂里 立花 梨奈 森下 薫

【大八車】

磯江 拓也 香取 直矢 柴田 鴻洋

田野井 大登 西村 一輝 橋岡 未浪

別當 大地 眞柄 成寿 緑川 諒人 渡部 斗希也

STORY

今から約2000年前、ローマ帝国が支配するパレスチナ
圧政と退廃に苦しみ、救世主の到来を待ち望むユダヤの民の前に
彗星のごとく現れた一人の青年がいた。その名は「ジーザス」。

新しい教えを説くジーザスに人々は心を奪われ、彼こそ「神の子」と讃える。
熱狂的に崇拝される中、彼は、民衆の期待と自己の無力さとの狭間で苦悩する。
使徒のひとりであるユダは、ジーザスを慕い愛しながらも、
彼が「神の子」として祀り上げられているように感じ、不安に苛まれる。
一方、唯一ジーザスが心を通わせるマグダラのマリアは、
彼の苦悩を知りながら、慰める術を知らない。

それぞれの愛、扇動されやすい民衆の心、権力者の思惑。
苦悩の果てのユダの裏切りが、運命の大きな渦に呑まれ、
抗えない力となって歴史の波を動かして行く。
そして、ジーザスは運命の十字架へ……。

youtu.be

ミュージカル『ジーザス・クライスト=スーパースター』[ジャポネスク・バージョン]作品紹介 | 劇団四季【公式サイト】 (shiki.jp)

状況含めて分かっていただけるから友達にはいつも甘えて話聞いてもらっています🙏

友達と感想話せると満足してその内容呟かないこともあるのだけどおおよそ友達が呟いてくれてて何でも文字にしとくのはいいなと思ったとこ。私は文字にするの遅いからとても有難い🙏今回友達の呟きも載せさせて貰いました。

 

民衆

苦しみも辛さもみな 葡萄酒で忘れて

私たちの美しい一日もやがて暮れていく

JCSは自分自身が群衆たちになりうる可能性を実感ある形で目にする。一人ではたかが知れている力も群衆となれば手に負えない力となる。崇めるにしても、磔を求めるにしても声を上げるだけで簡単に加担できるのだと。好きな人に対して期待している自分を自覚しなければ。

 

用意された舞台

配役

ユダが摺り足で歩んでくる様は生身であるのにどこか生気がなくて人形のよう。だからか夢醒めの「私、ピコっていうの」や鐘の誰もが人間と怪物になりうる可能性の提示のように用意された舞台へ裏切るために配役されたユダとよく分かって逃げられない恐ろしさを感じる。

叙事的演劇 Epic Theatre das epische Theater(独)

主にドイツの演出家・劇作家のベルトルト・ブレヒトによって探求された演劇のあり方。報告や叙述を行なったりコーラスや映像によって註釈をつけたりする第一次世界大戦後のドイツで試みられた演劇のやり方を「叙事的」と称するところから発展した。叙事的演劇は、劇的な演劇とは異なり、非アリストテレス的である。観客を舞台のアクションに巻き込み感情を湧かせる演劇の劇的形式に対して、叙事的形式は観客を観察者にするのであり、また観客に目の前の出来事への理解を委ねるところに特徴がある。したがって、叙事的演劇は「アリストテレスのいわゆるカタルシス——すなわち、ヒーローの感動的な運命に感情移入することをつうじて、情緒を排出し、解消すること」(ベンヤミン)を取り去って、筋の展開よりもヒーローの置かれている状況を描き、この状況への驚きを観客に求める。観客に状況を発見させるために劇の流れを中断させる。その中断のために用いられたのが、異化効果である。具体的には役者に社会的身振りの引用を行なわせることで、異化効果は社会的身振りを意識化し、それによって観客は通常とは異なる文脈のもとでその状況を反省するよううながされた。

著者: 木村覚

参考文献
『演劇論』,ベルトルト・ブレヒト(小宮曠三訳),ダヴィッド社,1963
ブレヒトの文学・芸術論』,ベルトルト・ブレヒト(石黒英男責任編集),河出書房新社,2006
ブレヒト ヴァルター・ベンヤミン著作集9』,ヴァルター・ベンヤミン(石黒英男他訳),晶文社,1971

https://artscape.jp/artword/index.php/%E5%8F%99%E4%BA%8B%E7%9A%84%E6%BC%94%E5%8A%87

「ユダの自殺」

大八車によって作られた三本の道。右を選んでも左を選んでも道は続いておらず見えない力が働いているように再び中央へ押し戻される。

少し小高くなっている中央の道だけは押し戻されることなく上っていけるが戻ろうと振り向けば道は既に無くなっており退場しか出来ない(=待ち受ける死)

照明、音のお話聞いて"青かったっけ?水っぽい音したっけ?"となったから記憶力と視野の狭さに落ち込む(笑)気になるから次確認しなければ~~!

舞台セット

エルサでは荒野が固定セットなので視線誘導されていると感じる。ジャポは固定本舞台にいる人物が見るべき人で大八車や周囲は背景だから物語の意味はとても分かりやすいと思う。

ジャポを見ると「賢者の石」の巨大魔法チェスで勝つためにどうすれば良いか分かっていてコマを進めるロンのようだなって毎度思うのは俯瞰の感覚かな?

ジャポで一番好きな役はピラト

ジャポで一番好きな役はピラト。夢で見た通りのことが起きて抗おうとしても逃れられない。「この人に罪はない」「なんだと王じゃないのか?」「望むなら鞭で打とう」ジーザスを冷静に見ていて無実と世論の狭間で揺れ動く。ピラトも"同じただの男"であって民衆に惑わされながらも必死に裁こうとするのに神の御心なのか自ら手を血に染める。この惑いが人間らしくて好き。死を受け入れる側が苦悩に満ちるの一公演通してよく分かるけど死をもたらす側、ユダだけでなくピラトだって色々思うわけじゃん?って思います。

すべて思うようにゆくでしょう

ジーザスの目の前で起こる光景を見てマリアは「苦しむのはのはおよしなさい 落ち着くのです」を伝えたくて「すべて思うようにゆくでしょう」と添えたように思える。

ペテロに「あなたのせいよ」というけれどマリアもジーザスのいかなることも肯定して否定せず実際言葉どおり"すべて思うようにゆく"

怖いよね。

時間が折り重なる

初見芝ジーザスだったのもあるのか、この間までペテロだったと知ってたからか…神永ジーザス初見時の市場へ乗り込んでくる怒っていても儚く美しすぎる声、触って欲しいと手を伸ばす群衆に押され取り囲まれる姿からこの人には荷が重すぎるよ~無理だよやめてあげて😭と思った姿が未だに重なって見える。

初見スンラユダが絶望と執着、芝ユダが見えすぎた展望に感じてて佐久間ユダ何度見ても何て普通の人なんだ…と感動する。あんなに普通であることある?ユダも"同じただの男"なのが好き。

オーバーチュア

友達は大体音楽の魅力もあってJCSに限らずよくオーバーチュアから泣いているイメージ😂JCSオーバーチュアはユダを通してこれから起こることが見えるからなおさら感動するの分かります。
私はカヤパたちの圧政が明確で好き。

オーバーチュア聞いてるとvariationがラフマニノフの変曲だと話してるロイドウェバー思い出してこの中にもいっぱいあるのですか??という気持ちになる。そういうのよく分からない…

まぁなんどJCS見てもなんでCD・音源がないのか"私は理解が出来ない"よね(笑)特にジャポネスクなんて一度も出てないわけですから記憶に刻みつけろってことか…と聞いております。文字はなるべく穏やかにしようと心掛けてるけど気持ちとしてはシモンナンバーの民衆と相違ないです。

一番好きなのはゲッセマネ

本当にずっと歌っているからお好きなんですか?と聞いたら「いや、一番好きなのはゲッセマネ」になぜ?の気持ちと"初めて満足したアリアです。あの場面にあれ以上の曲はないでしょう(おおよそ)"とALW卿が脳内ポップアップされる。

群衆とヘロデ

ほんとただ好みのダンサーさんだというだけなんですが純粋に好きであるがために目が離せないっていう(キャッツみたいなものだね)

擬音で表すと大森さんのビシバシオラァがそもそも好き。加えて柔らかさの種類が多彩でふわりも、揺らぎも見えるから群衆が好きです。

シンガー枠をダンサーさんがした時の身体的空間支配の感覚が好きすぎてそれだけで大分嬉しい楽しいと思っちゃうんですが、先日のヘロデは異質さが身体表現に寄りすぎず"かぶき者"と感じました。

これ何というと難しくて抑揚や間の取り方というくらいしか言葉に出来ない😢

場の支配感覚でいえば踊りで空間をいっぱいするのではなく動きが単純になった感じ。それにも関わらず余白を感じない存在感の行き届かせ方に変わったように見えるみたいな。