珈琲とmilkのパーセンテージ

苦かったり甘かったりするので無機質の筆や箱で切り取ってみる。

手紙

小説の感想。

 

あまりにも見知った街の状況。土地を持った人々と正社員になれず保障されない状況でギリギリを生きる人たち、両方が同じ土地にいる。大きな家に犬がいる、息子の家を建てるような光景は本当にあったなと思います。今はその大きな家の土地に3~5の一軒家が建っていますが。冒頭の住宅地の様子、あまりにもリアルだなぁと感じます。


勝手に身体を痛めてしまう人、男性に多いんじゃないか。それもどうかと思う一面ありますが女性は初めから重いものは持てません主義の人も多い。男性でしょ?と頼まれることも多いだろうし、なぜか持てると過信する人も多い印象。実生活で基準にしてるのが10㎏。それ以上のものを一人で持ってはいけないと思う。持てるとしても持たないのは大切。勿論そもそも持てない人も沢山いるだろうし。段ボールくらいの大きさでまぁまぁ重いものが一番いけないよね。私の中では重くても持てると持ち上げたら空箱でぎっくり腰になったというのが一番怖い話。軽くてもなるんだよね。よく腰をやるとまたやってしまう、というけれどあれは行動への反省のなさも関係してると思う。一度身体を痛めた方が腰上作業だけでもしているかといったら多分そうではないと思うから。まだこの話は腰痛だけど剛志が職に就けなかった工事現場なら死亡災害だってありえる。

後から考えると自身を大切にすることを知らなさすぎるから優しくとも結局は周囲の人を傷つけてしまうに繋がっている気がする。怪我に関してなら自分を大切にすれば自ずと怪我をしない方法を学んで他人の怪我を防止出来るようにもなるのだから。怪我をしない、しっかり治す、無理をしない、自分を大切にしていたらもう少し確実な方法で大学進学をサポート出来たかもしれない。

 

もう序章読んだだけで『オリヴァー・ツイスト』のビル・サイクスの顛末を読んだときのようなくらい気持ちになる。何でなんだよ~~😭相手を大切に思ったとしても短絡的すぎる。
本来犯罪を起こそうと思っている人ではないのが剛志。だから指紋を残さないようにしなければと浮かばない(=計画性がない)し、優しかった老婦人に情が湧いたり、天津甘栗から弟を思い出したりと注意散漫。ピクニックにでも来たのかな?というくらいの感覚で犯罪を起こそうとしてるのに反して優しい感情で溢れてる。


持論ですが優しさは自分を大切にした余剰分が当てられる。自分自身を大切に出来なければ優しさを持ちづらくなるし、自らの身を削った優しさはすぐになくなって持続的でない。
剛志が学力コンプレックスがあるのは確実にお母さんの影響なのだけど、じゃあお母さんが悪いか?と言ったらそうではなく優しさなのだと分かる。
このお母さんが専業主婦だったのかそうでないか分からないけれど世代的には専業主婦だったのかもしれない。そうでなくても女性は結婚すればいい(働かなくていい)からという考えはまだまだある。結婚をするためには学力が必要ないから進学させてもらえないことも多々あるとそこここから聞きます。お父さんの事故が大きな原因なのだろうけど、もしかしたらお母さん自体の後悔があるのかもしれない。そう考えると将来を案じてしまうのは分かる気がします。もしお母さんに余裕があったなら学力でなくても技術を身に付けるなど剛志に合う道を一緒に探せたのかもしれない。お母さんはあまり会えない息子達のために全力で働く、そもそもそれこそが深い愛なのだから。

 

剛志は心が優しすぎて言葉を受け止めすぎてしまうところがあるように思うし、受け止めたものをそのまま抱えてしまうのかな。現実を逃避する道の探し方が安直すぎるのかもしれない。ずっと人や言葉を大切にする人。


手紙読んでるんだけど第一章の終わり、「メモリー(一幕)」が頭に流れる。ただの印象ですが。

足元に散る枯れ葉渦巻き 風の嘆きが
街の灯は囁く 悲しい運命を
瞳は露に濡れる やがて夜明けか

モリー 月明かりの中
美しく去った過ぎし日を思う
忘れない その幸せの日々
思い出よ 還れ

二幕じゃなくて一幕メモリーぽいなと。
天津甘栗のエピソードが"幸せの日々"に呼応したのだと思う。
誰にも触れられず疎まれ避けられたグリザベラが
老いと孤独を噛みしめつつ一人踊る。
幸せな思い出よ"還れ"と気持ちを吐露する場面。
ここグリザベラも還ることはないと知っていて"還れ"と歌っている気がするから。

 

就活の時に「仕事は楽しまなければ!いかに楽しめるかだ!」と言っている採用の方が沢山いたけれどあれは言い聞かせてるんだなぁと今振り返ると思います。楽しいなら楽しいなぁと思うだけだから努力とかいらないもんね。ただ単調でこなすだけの仕事だとしてもその中でタイムトライアルをしてみるとか、正確さを極めてみたりとかすると私は楽しい。もし何かしらで楽しめるなら楽しんでみるのもありかなとは思ったり。
自分が納得していなかったとしても身の周りの方はその時の自分に必要なものを気づかせてくれるのだなと倉田さんの話を見て思います。新型コロナでとてもよく分かったけれど情報を得られる人は情報を得る努力が出来る人だけなのだと。似たような苦労をされている方からの情報は現実味があって有難いなと読みつつ思いました。

アンナ・カレーニナ - 幸福な家族はいずれも似ているが、不幸な家...

 

倉田は大人だ。自分より十歳近くも年上だ。その分社会で生きていく術を心得ている。だからこそ出来ることなのだ。今の自分は生きていくことだけで精一杯だ。それに自分には、彼の妻のように支えてくれる人間もいない。

これ以前に直貴のお母さんの描かれ方からも分かってたけど…いやそれにしても彼の妻のように支えてくれる人間もいないはなかなか腹立たしい。倉田は多分支えてもらってもいるだろうけれど奥さんを支えてもいるのだよね。ただ直貴の最後の一文には女性は支える人という意識が透けてる気がしてイラッとします。状況もあるのだろうけれど直貴は支える気がないのもイラッとくるのかな?怒りをぶちまけたのでその前に触れるけれど歳は関係なく倉田も大人であって大人でないのだと思う。自分を重ねすぎかもですが大人とカテゴライズされるからなんとか大人になるようなもの。仕事と同じで役割をこなすだけだと思うのは今の私だからかもですが。

音楽も兄のために諦めなければならなかった、とあらすじで見てたからだと思うけれど自分で諦めたんだなぁという印象。あとレーベル?の話はこの時代だからだなぁと少し思った。今ならレーベルの言うこと聞いて発信する前に動画や配信など自ら発信して全世界の観客に向けて発信出来もする。上手くいくかはそれこそ分からないけどこんな絶対的な存在でもないのかなと。好きなことに出会えたのにこんな簡単に手放すのか…と思うけど手放すのが直貴なのかな。0か100かだよね。曖昧でいいだろうに。

 

P207
優しい人間でも、いつもいつもその優しさを誰にでも示せるものじゃないってことだ。あっちを取ればこっちを取れない、そういうことっていっぱいあって、何かを選ぶ代わりに何かを捨てるってことの繰り返しなんだな、人生は。

剛志の手紙は毎度毎度家族のことを事細かに観察して覚えているなと感じさせる。それだけ大切だったのだろうなぁ。

また「田園調布」というのが木場とは成り立ちの違う場所で対比が面白いなぁと思う。計画して作られた街と都を支えてきた下町。

 

社会的な死。人は繋がって生きている。例え一人の行動だろうと周囲に結びつく。人は常に孤独だけれど本当に関わりなく生きている人はいない。
私は自分自身を大切に出来ない描写が好きじゃなくてあまり見たくない。自分自身を大切にしないことは周囲の他者を大切にしないのと同義。

ジェリクルソングより「生き抜けるか その孤独を」