珈琲とmilkのパーセンテージ

苦かったり甘かったりするので無機質の筆や箱で切り取ってみる。

真剣乱舞祭2022 福井 2022/05/08マチネ配信

【原案】「刀剣乱舞-ONLINE-」より (DMM GAMES/Nitroplus)
【構成・演出】茅野イサム
【脚本】伊藤栄之進
音楽監督】YOSHIZUMI
【振付・ステージング統括】本山新之助
【振付】當間里美 國友裕一郎
【主催】ミュージカル『刀剣乱舞』製作委員会
ネルケプランニング ニトロプラス DMM GAMES ユークリッド・エージェンシー)

【出演者】
小狐丸役 北園 涼
今剣役 大平峻也
大和守安定役 鳥越裕貴
和泉守兼定役 有澤樟太郎
堀川国広役 阪本奨悟
蜂須賀虎徹役 高橋健介
長曽祢虎徹役 伊万里
千子村正役 太田基裕 (福井・愛知・大阪 ・宮城公演に出演)
蜻蛉切役 spi
明石国行役 仲田博喜
鶴丸国永役 岡宮来夢
桑名江役 福井巴也
松井江役 笹森裕貴
浦島虎徹役 糸川耀士郎
日向正宗役 石橋弘毅
豊前江役 立花裕大
ソハヤノツルキ役 中尾暢樹
水心子正秀役 小西成弥
源清麿役 佐藤信
五月雨江役 山﨑晶吾
村雲江役 永田聖一朗
大包平役 松島勇之介
小竜景光役 長田光平
南泉一文字役 武本悠佑
肥前忠広役 石川凌雅
 
榎本武揚役 藤田 玲
平将門役 川隅美慎
松島朱里

村中一輝 大野涼太 笹原英作 鴻巣正季
山口敬太 杉山諒二 服部 悠 河野健太
佐藤一輝 大黒智也 堀 直人 佐藤誠
 
【会場替わり出演】
福井公演 大倶利伽羅役 牧島 輝

特設ページ - ミュージカル『刀剣乱舞』 | ミュージカル『刀剣乱舞』公式ホームページ (musical-toukenranbu.jp)

 

少しだけ名古屋初日感想も混ぜました。

 

 

 

真剣乱舞"祭"

以前の真剣乱舞祭をしっかり理解できてるかというとそうではないけれど今回の真剣乱舞祭は全体を統括するものが分かりやすいと感じます🏮とか呟いたけれど言葉にしようとしたら出来なかったので分かった気になっただけでした💦

でもなんて言うのかな…作物が無事実って収穫出来ますように、病気にかからず過ごしていけますように、など願い祈りから発展してるお祭りもあるだろうこと。また祭りの生み出す熱狂は良い意味でハメを外せる機会といいますか…日本は島国だからか協調性を大切にしますよね。暮らしの中で周りに合わせられる必要性がある。当然自分の心と反することもあるわけだから苦しいこともある。自分自身を解き放つ場でもあるのかなとコロナ禍で窮屈さを感じる日々がゆえに感じやすい気がしました。

1.演劇祝祭論
 「芝居=ハレ(晴)=非日常」という図式は、もはや改めて述べる立てることに気恥ずかしさを感じるほどに、人口に膾炙している。そしてこの図式が、大方の了解を得たということは、現在もなお、「芝居」というものを「祝祭」のような「非日常」と捉えることに、一定のリアリティを感ずる人々が多いか、もしくは、そのように捉えたいという願望を抱く人々が少なからず存在するということであろう。
 この図式は、無論、「芸能」の発祥を、豊穣儀礼という「祭祀」に求めるという意味において無理のないところである。したがって観客たちは、そのような「祝祭=ハレ」に参加することによって、「日常=ケ(褻)」の生活の間に蓄積された鬱憤等を払いたいと願い、文字通り「カタルシス」(浄化)を求めて劇場にやってくる人々ということになる。たとえば波平美恵子らの民俗学者は、このような日常生活を送る間に「ケ」の力が枯れることが「ケ枯れ」(=穢)であり、この「ケガレ」を払って、元の日常生命力を恢復するのが「ハレ」の祭祀であると説くが(波平 1984)1)、芝居とはまさに「ケガレ払い=祝祭」と云い得る。
 そしてこのことはまた、芝居を作る側、殊に役者について妥当する。会社勤めや学校生活などの日常に褻(くたび)れた人々が、「台」に載せられ、「光」を浴び、非日常的に声を張るさまは、日常の垢を落とし、活力を恢復するための儀礼に参加する氏子たちの姿に他ならない2)。
 斯様に「芝居」とは「ハレ」のものであり、劇場は「祝祭空間」として公演期間中のみ成立し、時が過ぎれば、何の変哲もない「ケ」の空間に立ち戻っていく。野外演劇がその典型として期待される所以であろう3)。
2. 平田オリザの「祝祭」否定
 このような基本的図式に対し、一見、挑発的変更を迫るように見えるのが平田オリザである。現代演劇の大枠は、作り手が受け手に対して「作り手の見ている世界」を提示することにあると主張する彼は4)、「単調な日常からくる旧来のストレス」ではない現代の「都市のストレス」は、「従来の単なる発散型の祭りだけでは解消できない」(平田 1997: 38)のであり、「もはや演劇に、夢やロマンは必要ない」(平田 1997:42)と断定する。では、現代の都市生活者は、如何にしてストレスを発散しているのか。平田によれば、「過剰な情報や刺激をシャットアウトした静かな空間」(平田 1997: 38)において5)、「都市のストレスによって喪失していた自己の生活の座標軸を、おぼろげながらも取り戻そうとする」(平田 1997: 41)ことが、ストレスの発散ということになる。
 要するに、平田は、最初の基本図式にかんして云えば、「ハレ=非日常=祝祭」という図式は否定しておらず、そのような図式を「従来型」と規定した上で、そのような「従来型」が「都市」においては無効であると主張している。その理由を、平田は、「刺激によってストレスを発散させようとしても、刺激はより強い刺激を要求し、際限のない欲求は新たなストレスを生み出すだけだ」(平田 1997: 38)と述べる。つまり、「都市」はすでに「祝祭」に満ちているため、むしろ「静寂」が求められると云うわけである6)。
 たしかに「都市」は「喧噪」に満ち溢れており、24時間、日々「祝祭」の空間と云い得る。当然、そのような状況下では、「喧噪=日常」なのであり、「従来型=喧噪型の祝祭」は、「非日常」としての有効性を持ち得ない。だが、その場合、「静寂」がストレス解消装置として有効なのは、「非喧噪=非日常」となっているからであり、「非日常=祝祭=ハレ」とするならば、必然的に「静寂=非日常」も亦「祝祭」となる7)。つまり、平田の否定するのは、単に「喧噪型祝祭」なのであって、「非日常」そのものを否定しているのではないのである。

【注】
1) 「カレ」を「離れ」と解して、「日常から非日常への移行」とする説もある(cf. 大野他 1990)。
2) 劇団に参加を申し出る、殊に役者希望者の志望理由には、この「日常離脱」願望がしばしば見られる。
3) 公演日数、時間帯の相違等によって、一概に云うことはできないが、われわれの浪花グランドロマンにおける野外演劇と小屋劇の観客動員は、作・演出・キャストがほとんど同一であっても、常に野外の方が上回る。
4) 現象学にインスパイアされ、「私に見えている世界=私の身体が知覚する世界」を「ありのままに記述する」ことを目指す平田のこの図式は、しかしながら「私しか知らない世界」を要請し、それを保存する構造において、「独我論的構成」を免れていない。事実平田は、「私たちは他者の知覚を知覚することはできない」(平田 1997:48)と述べている。
5) この記述から、「静かな演劇」と呼ばれる平田の芝居が、自覚的に「静か」を目指していることが判る。
6)  云うまでもなく、このような考え方は、高度文明に疲弊した西欧人が東洋やアフリカに赴くとか、やはり疲弊した都会人が都会を離れて田園・山間・離島に旅するとか、そのような暇もない勤め人が帰宅後に部屋でリラクゼーション音楽に身を浸すといった図式に、甚だ似ている。そのことだけに注目すれば、平田の目指すものは、巷間流行る「癒し」になってしまうが、まさか平田が「ヒーリング・シアター」を目指しているとは考え難い。彼の表現動機は「私に見えている世界を、ありのままに記述すること」(平田 1997: 24)であるのだから、「癒し」はその副産物ということになる。
7) つまりは定義の問題である。「祝祭」は本質的に「喧噪」を内包するのだという声が強ければ、こちらのは「静寂型祝祭」や「都市型祝祭」などと呼び変えればよい。

http://chat--noir.com/trav/fete_th.html

この論文、鵜呑みにする気はないんだけど好きでもう幾度となく読み直してるやつです。本当は全文載せたいくらいだけれど。

舞台は浄化・カタルシスの場なんじゃないかというのは私も思っています。

カタルシスという言葉は、「心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」を意味します。もともとは、アリストテレスが『詩学』に書き残した悲劇論から、「悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし感情を浄化する効果」をさす演劇学用語です。転じて、精神医療においては「抑圧されていた心理を意識化させ、鬱積(うっせき)した感情を除去することで症状を改善しようとする精神療法」をさします。さらに、一般化して、「心の中にあるわだかまりが何かのきっかけで一気に解消すること」をいいます。

第36回 カタルシス | 10分でわかるカタカナ語(三省堂編修所) | 三省堂 ことばのコラム (sanseido-publ.co.jp)

非日常が喧噪・発散型でも、静寂でもどちらでもいいと思うんですけど真剣乱舞祭は喧噪も静寂も良い具合に繰り返されてどちらの非日常も兼ね備えていているなぁと思います。ついでに屋内だけれどかなり広い空間だから観るという鑑賞するのではなくてその場に居る体験になっているの醍醐味って感じ!


さらにちょくちょく船葬墓とか見かけてるけど突き詰めると要素や意味合い色々あるみたいだよね!刀剣乱舞は何から手を付けたらよいのか…分からないことが分からないわけだけど集合知が共有されて楽しめるの良い!

kotobank.jp

なんで祭が行われてきたのか、必要とするのかを感じやすいよね。

日本での祭りが始まったのは、大昔から伝わる「岩戸隠れ」の神話にあると考えられています。岩戸隠れとは、太陽の神である天照大神(あまてらすおおかみ)が天の岩戸に隠れてしまうことで国中から光が失われ、それをなんとかしようと考えた八百万の神々が岩戸の前で踊ったり歌ったりの大宴を繰り広げるというお話です。八百万の神々は、岩戸の奥に隠れてしまった天照大神の気を引いて外へ出そうと、岩戸の前で盛大な宴を行った結果、ついに天照大神は岩戸から顔を出し、国中に光が戻りました。 この「宴」こそが、現在の祭りの起源になっていると言われています。また、「祭」という言葉の語源は「祀る(まつる)」という動詞で、神様に供え物を献上する意味合いも持っています。

多様性のある日本の祭りですが、その中でも全国的に共通していることがあります。それは「神輿」の存在です。「神様が乗るもの」と考えられている神輿は、多様性のある日本の祭りの中でも一貫して見ることのできる伝統文化と言っても過言ではありません。

日本の祭りとは?伝統文化から三大祭りまで解説! | にほんご日和

日本のお祭りの本来の目的は「神様に感謝する」こと。「祭り(まつり)」という言葉の語源も「祀る(まつる)」です。神を慰め、祈願すること、またはその儀式を指し、土着の神様、神道または仏教に由来します。 日本人のお祭りに対する思いを理解する上で重要なのが、「ハレ」と「ケ」の概念。「ハレ」とは「非日常」、「ケ」は「日常」。祭りは「ハレ」であり、華やかに執り行うことで「ケ」をリセットする意味があります。
日本人は、この「ハレ」の機会を楽しみにし、「ケ」の日常を生きる活力の源としているのです。

「お祭り」って何?日本人は何故お祭りに情熱を燃やすのか? - ANA

 

 

祭パート、袴意識された衣装で足元が隠れるから足を上げてつける仕草かわいすぎるなぁと思うだけ!

ともあれ配信なのにこんな定点になってしまうと思ってなくて予想外すぎる。なるべく広く見たいと思ってはいるんだけどいや~~~今後が心配になるくらい蜻蛉切に目が引き寄せられてます。時々あることではあるにしても見込んでいる作品でなるならまだしもね…まんじゅう的な感じで怖い(笑)

以前から衣装も思ってたんですがお祭りのセットも綺麗に保存されているからこうして今回の演出が出来るのだろうと感じます。刀剣男士こそが大切にされているから形あるものであるわけですけど、残していくというのは大変な労力があるわけで思いに溢れている場だなと思いました。

ねぶた祭

「稲穂も 実る 」の実る、振りもかわいいし、行き着いて止まって笑顔の蜻蛉さんかわいいから写真欲しい…。ただ何でもかわいく見えてるんじゃないか?という自覚はある。ほんとかわいいは全降伏の感情すぎる🙌おてあげ

エイサー

蜻蛉さん良すぎるんですわ~~かわいい。なんかめちゃくちゃかわいい~~太鼓抱えてるからかな?1番始め、進み出てきて止まって脚を開いてゆったりポーズがとても好きです!エイサーひたすらかわいすぎる~~叩きつつ歩いていくの、腰の高さまで上げていると大変かわいい!そしてとても楽しそうに見えて心も陽気になる🌺ただ脚を曲げているとはいえ結構きつい動きが続くんじゃないだろか?と勝手に思ってありがとうございますの気持ちでいっぱい🙏エイサー??????という衝撃と、エイサーこんなに似合う刀剣男士がいるのか…という謎の衝撃と。もうこれに限ってはかわいいに尽きる~~の気持ちが突き抜ける気持ち(笑)

エイサー、支えてる軸足も凄いと思うんだけど上げてる足をキープする力強さときめく✨ああいう支える筋力ってほんと素敵!身体が柔らかい、足が上がるだけじゃなくて美しい瞬間を保つのは生大抵の努力じゃ出来ないだろうなと思うから。

とも思うけれどひたすらなんかかわいい~~の気持ちも半分くらい(笑)

太鼓どのくらい重いのか分からないけれどぶら下げてるだけでも肩痛くなっちゃいそう。
ベースでさえ重くて肩痛くなったのを思い出しつつ。

「約束の空」

力が拮抗していて少しばかり勝ったかのような圧していく蜻蛉さんの動き。それ以前の踊りの速度が途端に凝縮されるよう。起点として率いている姿、ときめく。

「Scarlet Lips」

蜻蛉さん、控えめなのに艶やか。他の皆さんがこちらへアピールして誘うようなのに対して身を引いているからこそ誘われるといった感覚。かわいらしい。格好良いアピールではないというところが本当に好きです!これどこかで見たような…とは思うけど何と表したら良いんだろう?アメリカミュージカル映画?ジャズとかかな?

最初から私はそう見えてるんだけど幕末組が白い衣装なのに対して蜻蛉さんは一人だけ背景の階段黒に近い深めの紫。振りも同じ振りだけれど1番動いている範囲が狭いはず。だから身体の大きさ以外で言えば1番目立たない要素しかないのにあんなに目奪われてしまう(というか本当に目立たないようにされてる気さえする…)。惹かれてしまうくらい魅力的なんだろうなと考えちゃうよね まごうことなき贔屓目です(笑)

「美しい悲劇」村正、蜻蛉切

見てみたかった光景がここに…!!の瞬間でした
歌は心地良く(感じるのは楽しみだったからかも)、踊りは熱く引力をもって切なく(見えたけども違うかも)。壽で回替わり曲を知って最後まであるかな~?と楽しみにしていた村正派のお二人。曲、覚えてる!イントロで気づく!村正派残ってる!正直嬉しすぎました!そしてもっとずっと長く思い深く刀ミュのファンである方はより喜びに溢れた瞬間だったのだろうなと思います おめでとうございますの気持ち。

歌が心地良い…というところで思考が止まってしまったので印象がどうとかはディレイ頼みです(笑)響きの声が好き。村正派二人で一つの芯があって響きのある美しい歌に聞こえました。お互い引き合って近づくのに共にならず、引き合った力の方向へ離れていく。この切なさの振りが好き。引き合う時かなり強めに引き合ってお互いを支えて、倒れかかる村正を引き寄せるまでに至るのに離ればなれになってしまう。

歌詞を思うと刀剣男士だったら一度は考えるのだろうか?思い浮かぶ背景があればあるほど響く美しさなのでしょうか。

繋ぎ止めてるみたいだなぁと思った。執着ではないんだけどもう交わらないほど遠くはなれて行ってしまいそうな手を掴んで留めるみたいな。

「Supernova Song」

初めて聞いて好きだなと思って繰り返し聞いてる。曲と一体になったり意のままに動かすような光景、松井江が掌握しているようでいいなぁって。

「獣」

蜻蛉さんがセンター一番上のステージで腕を伸ばし爪を立てる仕草、また一つ格好良い仕草を知ってしまった…!格好良いことは一目見て知ってるはずだったのに分からないものだよね、再度刺さり直してしまうのだから。
 

 

 

 

エイサー、支えてる軸足も凄いと思うんだけど上げてる足をキープする力強さときめく✨ああいう支える筋力ってほんと素敵!身体が柔らかい、足が上がるだけじゃなくて美しい瞬間を保つのは生大抵の努力じゃ出来ないだろうなと思うから。

とも思うけれどひたすらなんかかわいい~~の気持ちも半分くらい(笑)

太鼓どのくらい重いのか分からないけれどぶら下げてるだけでも肩痛くなっちゃいそう。
ベースでさえ重くて肩痛くなったのを思い出しつつ