珈琲とmilkのパーセンテージ

苦かったり甘かったりするので無機質の筆や箱で切り取ってみる。

ジーザス・クライスト=スーパースター-2024/03/23-

2024/03/23(土)ソワレ前楽

自由劇場

 

キャストさん

ジーザス・クライスト 加藤 迪

イスカリオテのユダ 佐久間 仁

マグダラのマリア 江畑 晶慧

カヤパ(大司教) 高井 治

アンナス(カヤパの義父) 吉賀 陶馬ワイス

司祭1 正木 棟馬

司祭2 玉木 隆寛

司祭3 川原 信弘

シモン(使徒) 柴田 鴻洋

ペテロ(使徒) 大空 卓鵬

ピラト(ローマの総督) 山田 充人

ヘロデ王 劉 昌明 

【男性アンサンブル】
鈴木 貴雅 下平 尚輝 磯江 拓也
姜 大舜 佐々木 玲旺 木谷 光
鈴木 智之 横井 漱 瀬下 喬弘
佐橋 秀明 橋岡 未浪 平山 祥

【女性アンサンブル】
坂井 菜穂 黒田 果穂 小野 実咲季
高倉 恵美 安宅 小百合 廣本 則子
片倉 あかり 梅澤 紗耶 山田 志保
佐田 遥香 古森 麻由 立花 梨奈

あらすじ

この作品は、イエス・キリストジーザス・クライスト)が十字架にかけられるまでの最後の7日間を描いたミュージカルである。

今からおよそ2000年前、ローマ帝国領のパレスチナに一人の青年が現れた。

大工の息子ジーザスは、人々に新しい教えをとき、数々の奇跡を起こしているという。 圧政に苦しんでいた民衆たちは、たちまちジーザスの言葉に耳を傾けるようになり、彼こそ「救い主」「神の子」と讃える。

弟子の一人、イスカリオテのユダにとってジーザスは「神の子」ではなかった。
ジーザスを愛するユダには「全て御心のまま」という師の真意が理解できない。
マグダラのマリアもまたジーザスを愛していた。
彼女は、かげりの無い、純粋で献身的な愛をジーザスに注ぐ。
ジーザスが「ただの人」だと露見したとき、人々はそれを許すはずが無い。 彼らの怒りによってジーザスは押しつぶされてしまうだろう。 そう予感していたユダは、師ジーザスを裏切る決心をする。

「あなたを誰かが追い詰めるなら、私がやる」

弟子たちとの最後の食事でジーザスはこの中に裏切り者がいると指摘する。
動揺する弟子たちをよそに、ジーザスは独りゲッセマネの園で父なる神に問いかける。

「私はあなたの心が知りたい、この目であなたが見たい」

銀貨30枚と引き替えにユダは師の居場所を教え、ついにジーザスは捕らえられた。
支配者たちの間をたらい回しにされ、侮辱・嘲笑されながら抵抗しないジーザス。
いま、あまりにも無力に見える彼の姿に民衆は失望し、叫びつづける。

「彼を殺せ、十字架にかけろ」

ユダ、マリア、シモンやペテロといった弟子たち、ユダヤ教の司教、ローマ帝国総督、そして民衆。
人々の思いが交錯する中、ジーザスは十字架に向かって進んでゆく…。

ミュージカル『ジーザス・クライスト=スーパースター[エルサレム・バージョン]』作品紹介 | 劇団四季【公式サイト】 (shiki.jp)

真正面からの演出

シェイクスピアといふものを観てみむとてするなり、と思うとどう演出するかを観ることになる気がする。四季ハムレットみたく真正面から本に向き合う感覚をエルサレムに感じました。エルサレムだと分かっていてジャポネスクがあるんですよ、って当時作られてるんかなぁなどと思ったり。

これは中野サンプラザこけら落としだったのですが、前衛的すぎたのでしょうか。毀誉褒貶が激しく、経済的にも必ずしも成功ではありませんでした。その後、もっとリアルな舞台を志向して演出したのがエルサレム・バージョンです。だから、ジャポネスクの方がオリジナルなわけです。

一九九一年二月 大阪公演プログラムより再録(一部加筆改訂)より

毀誉褒貶(きよほうへん)...ほめたり、悪口を言ったりすること。ほめることと悪口を言うこと。

当時の批評がどのようなものだったのか分からないけれどエルサレム・バージョンを作ることで発した言葉の責任がそのまま批評家へ返ってくるようなことがあっても不思議ではなさそうだなと思います。

ジーザス役で拝見する三人目

この日が迪ジーザス初見でした!やったーー🙌迪さんが活躍するたびに掘り返してるんだけどエビータのお兄さんされてた時に素敵な声だな~と思ってた方がジーザス…!拝見したらやっぱり素敵なお声で、猫で見ていることも含め多少どころか普通に贔屓目なですけど…全てを超越してなんか感動する。なんで私が感動するんだって感じではあるけどまぁ存在に感動してしまうとこあるよね。と同時に目の前に立つジーザスこの人は”ただの男”であると思う感覚は共存する。客席に座る私となんら変わらない人間であると目にして空間を共にして思う。考えていることはわりと達観していて人間らしくない気はするのだけど今目の前で見ている"一人の青年"の姿こそが人間だと感じさせる。舞台という形式だからこそ第四の壁があろうとそこに"居る"のを認めざるを得ない。そこがいいのかも~なんて思ったり。

長い人生のうち切り取られた7日間

ジーザスは「私が死んだらあなたがするのです 私に求めていたことを」「あなたが今そう言った」など後々に出てくる台詞をそれ以前の場面に感じる。目の当たりにしている物語・最後の七日間より前から人生は続いている感覚が強かった。それはもしかしたら長く隣で見続けてきたユダに寄り添う見方になったのかもしれないし、民衆のため離れているように見えたのかもしれない。

そう考えると神永ジーザスはなんでかオーバチュアで初めてジーザスに出会った人の気分を毎回感じていたような気もする。

・民衆・ユダ・ピラト・ヘロデが求めた姿に応えずとも「(私が止めようと)彼らは歌うでしょう 例え黙らせてもこの世は静かになどならない」

・「見失うぞ 私が去った後は」自身の死が分かっているから去った後を想定して人々と関わりあっているように見える。

やりなおすことはできないのですかメンバー

きっとマリアが今まで幾度となく投げられてきただろう「普通ならキスさせる相手じゃない」をジーザスが否定し、行動含め受け入れることで存在が肯定されるからジーザスの死後も生きていけるだろうと思えた。

ペテロも何も言葉にせず触れなければユダ(自殺)やシモン(求めたことを悔いる)だったかもしれないけれど反省の機会が生まれたことで生きていけるだろうと思えた。

ジーザスが行動に移す対象の人は行動によって変わり、生きていけるんだなと強く印象に残りました。

ゲッセマネ

私は迪さんがようこそで歌ってた「罪の炎」熱くて好きだったからああいうのまた聞けないかな~と思ってて、似ているわけではないけどゲッセマネの心情吐露の向かってくるストレートさ素敵だなぁと思う!今までゲッセマネはあの時点での感情と思っていたけれど迪ジーザスは「この心変わらぬ間に」以外の熱さは常に抱えていそうな気がしました。何度も考え続けただろう問いと思いを秘めて今まで尽くしてきたのかと思うとね。

かわいい

『琴線に触れる』とは,本来『感動や共鳴を与えること』という意味です。」 解説者「平成 19 年度の『国語に関する世論調査』で その意味を聞いたところ,『感動や共鳴を与えること』 と回答した人と本来の意味ではない 『怒りを買ってしまうこと』と回答した人の割合に大きな差はありませんでした。

kotoba_17.pdf (bunka.go.jp)

琴線に触れるの本来の意味以外で認識している方が一定数いることについて、から派生して沢山の意見を見かけるこの頃です。その中の一つの意見に『感動や共鳴を与えること』という意味ならば難しい言葉ではなく「やばい」などで通じるのだから分かりやすい方がいいのではないか?というものを見かけました。私の考えとしては「やばい」には複数の意味が含まれていて気持ちを明確に伝えられる言葉ではないから必要だと感じます。例え意味である「感動した/させられた」「共鳴した」と聞いても想像しえない細かい感覚が「琴線に触れる」から分かる気がします。言葉にならない気持ちをぴたりと指し示す言葉に出会って近しい感覚で共有できることは喜びだと思います。「あの人がかわいい」の”かわいい”は言葉に出来ないを簡単に表した言葉ではなく、その気持ちを表すのに適した”愛ゆえに知らない自分になっていく怖さ”や”愛しさ”などを内包する言葉が”かわいい”であるように思えて好きです。

精神的に安定したユダ

初見から昨日まで佐久間ユダはどこかに理性的で精神的に安定している真人間さを見てとれて安心するところがある。だからと言って自殺する結果は同じですしそこに矛盾を感じません。ただユダ派がいるのとても説得力あるなと思う。

「知らないのか 飢え渇いた者たちがいるのを 彼らをまず救うことが何よりも大事なのだ」「貧しいものを救うことが出来ると思うか」自分自身でも出来るかもしれないと思うから"綺麗な金(かね)"を掴むんだろうと色濃く感じた。

「やったぞユダ」これからを担う自分・ユダに対する祝福に聞こえたかもしれない。

声が何なのかは置いといて金を掴んだ後の「やったぞユダ」はユダからするとユダ自身に対する神からの祝福にも思える、けれど最初からジーザスが死するため重要な役割をやり遂げたことへのねぎらいだと「さよならユダ あわれなユダ」で予定調和を肯定する。

光景を直視するにはそれじゃ惨すぎるじゃないかそのもの。

新約聖書によれば、イスカリオテのユダイエス・キリストを裏切ったとされる人物だ。ユダは銀貨30枚と引き換えにイエスを官憲に売り渡したとされる。しかし、実際ところユダについての記述はあまり多く残っていない。

 イエスの死後、初期キリスト教の時代には、様々な教えを説く福音書が存在した。新約聖書に収められているのは、その中で「正典」と認められた、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4つの福音書のみである。この4つの福音書が正典と認められたのは、西暦150~200年頃だと言われる。この動きに特に積極的だったのが、教会の司教でありユダの福音書を「偽りの歴史」と厳しく批判したエイレナイオスであった。当時キリスト教の教えは一つではなく、様々な福音書が存在し、正統派教会もその中の一グループに過ぎなかった。

 ユダの福音書は、正統派教会に弾圧されたグノーシス派の教義の一つであったと考えられている。グノーシス派は教会から異端とされ、残っている資料はごくわずかだ。4つの正典派とユダの福音書を初めとするグノーシス派には、その教義に大きな違いが存在していた。

 グノーシスという言葉は、ギリシャ語で「知識」を意味する。グノーシス派の教義は知識を通して救済の道を示そうとするものだ。知識といっても、本から得られる知識のことではなく、自己の本質を知ることで、神を認識することができると考え方であった。これは「神の子であるイエスだけが、人間であると同時に神でもある」とする教会の立場と真っ向から対立する。つまり、神の声を仲介する教会の聖職者の必要性に疑問符を付きつけたのだ。

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ユダの福音書によれば、イエスの真の教えを理解しているのはユダだけであり、イエスに最も信頼されていた信徒でもあった。イエスはユダを他の使徒よりも一段上の存在だと考え、皆を導いていくのは彼の仕事だと語っている。

 そして、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」と話し、イエスから物質である肉体を取り除くことによって、内なる真の自己、つまり神の本質を解放するように言うのであった。これは、グノーシス派の典型的な考え方であり、肉体は牢獄で、その牢獄からイエスを解き放ったのがユダであったことを表している。

 また、イエスを売り渡したことでさえ、イエスの言葉に従ったからに過ぎないという記述も存在する。イエスは、ユダが他のすべての使徒たちの非難の的となるだろうという言葉も残している。

 なぜユダに関する記述がこれほどまでに違うのか、そこには初期キリスト教会のユダヤ教の一分派を脱却したいという意図が見え隠れする。その過程において、ユダ=ユダヤ人として描き、イエス処刑の責任をユダヤ民族に負わせることが教会にとって都合が良かったのだ。その傾向は時代を追うに連れ強まっており、福音書の中で最初に書かれたとされるマルコ福音書からヨハネ福音書にいたるに連れ、ユダの邪悪性は増していく。

「ユダの福音書」の持つ意味 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト

その他

・「剣を取ろう!」と皆に呼び掛けるほどジーザスを思うのに、「知るもんか あんなやつ!」保身のため三度の否認と反省、いずれも一人一人に真っ直ぐ向き合っているところが大空ペテロとても好きです!

・司祭メンバーによって歌声変わるのに混ざって必ず心地よいの耳に優しい。

・玉木さん、ジョン万でもスパンと届く素敵な歌声だなぁと思ったけれどパリサイ人の歌声がトランペットのように届いてくるの気持ちいい🎺

チャンミンさんのヘロデとても楽しみにしてました👏思ってたよりも癖が強い(笑)なるものとしてなった王様で、好待遇を当たり前に思っているところ、ジーザスは暇潰しで意のままに動かそうと煽るのがとても王様らしく感じる✨政治をする気はなさそうだけれど飾りの王様として頭が悪いわけでもなく非情な判断をしそうな雰囲気あるなと思いました。あと単純に見てみたいなと思っていた役だったから嬉しい~~

・最後の晩餐の使徒たち、歌い終わりのビブラート?収束で心地よく残る方がいらして気になる。

The moments of happiness

違いは沢山あるのに初見と同じような感想を抱きました。つまり感情・感想に再び出会えたことが幸せだなと思いました。繰り返し読まれてきた聖書、繰り返し上演されている宗教劇を考えても人間が考え続けてきた物語のひとつであるのは疑いようがない事実だと思います。宗教劇に馴染みがない私からすると”ただの男”のお話であるから普遍の物語として受け入れられるのだと思います。

「幸福の姿」の原詩及びそれとほぼイコールの歌詞には、ロイド=ウェバーが指摘するように記憶について、またわれわれがなぜ過去を必要とするかについて重要なメッセージが隠されている。私の見るところ潜んでいるメッセージはふたつあると思う。人は幸福の瞬間に出会っているのに、その体験の意味するところをしっかり認識していない。今いちどその意味を確認することで追体験しようではないか。これがひとつ。もうひとつは、そうして甦った幸福感はひとりの人生体験によるものではない。何世代にもわたる多くの人々の体験の堆積だということである。

2021.4『アルプ』内「ミュージカル千夜一夜」より

四つの四重奏曲 - 株式会社大修館書店 (taishukan.co.jp)

『四つの四重奏曲〈Four Quartets〉』「ザ・ドライ・サルヴェイジズ〈The Dry Salvages〉」

折り折りの幸福感——仕合せのことではない。

実現、達成、安心、愛情などでもない。

うまいご馳走のことでもない。それはあの思いがけない光明のこと――

われわれはあの体験がありながら、意義を掴みそこねている。

意義に迫って行けば、体験は

違った姿で戻って来る。どんな意味あいの幸福も

これには到底およばない。前にも言ったように、

意義の甦った過去の体験は

一人の人生の体験に留らず

幾世代の人々の体験ーーおそらくは

全く言いようのないことまでも含んでいる。

ⅡI. 思想内容
Four Quartets のテーマは,一口に言って「時間と非時間が人間の生に対して持つ意義」である。これをやや敷衍すれば, 時間の中で生活しながら非時間(永遠)に接することを願い、果たし、そして時間の世界のみならず非時間の世界をも視野に収めながら, 現実を新しい気概をもって生きてゆく決意をうたっている。
このことを少し筋道立てて述べてみよう。 文学でいう 「非時間」には三つの面がある。その一つは「回想」 による無限性, その二は作品の 「永続性」,そして第三は宗教的な意味での「永遠」 である。この三つの非時間相はすべて, Four Quartets の中でテーマとして扱われ, 混然一体となっている。

さて第一の「回想」 であるが、ある経験が記憶されると,それは印象の強さに従って長時間保たれ、 きっかけさえ与えられればいつでも意識の中に再生される。 これが回想の非時間性である。 さらに, 回想によって過去の体験を再現するとき、われわれはその体験の持つ意義や情緒までも味わうことができる。(その意義や情緒の中には,当時は気づかなかったものもあろう。) そして当時の自己も再現される。このときわれわれは, 「永遠の今」 を実感するのである。

次に、作品の永続性であるが,これを実現するために詩人はさまざまな体験の中から高い価値のある題材を選ぶと同時に,これにふさわしい高度に芸術的な方法で表現する。 Wordsworth が「詩は平静のうちに回想された感動から生まれ出る」 (Preface to the Lyrical Ballads) と言ったのは、上の目的を実現させるための慎重な配慮にほかならないし, John Keats が 「美しいものは永遠の喜びである。その美は増しこそすれ決して無に帰することはない」 (Endymion) と言ったのは,このようにして創作を見た作品の持つ不滅性(非時間性)についてうたったのである。

Eliot は Burnt Norton (11. 137-43) の中で中国産の壺を例に,偉大な作品の不滅性についてうたい, その完成された姿を「静止に達し」たと言い表わしている。 すぐれた作品をすぐれた鑑賞者が味わうとき、鑑賞者の自己も作品も時代性も意識されず, 主客合一して区別が無くなる。 すなわち,時間の中にあって時間の外の相 (非時間相)を体験するひとときである。

第三の宗教的永遠を垣間見ることは非常に困難な, また稀有なことである。
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非時間と触れる一瞬に認識されるのは 「廻る世界の静止点」, 万象を統一する経綸の中心にあるもの,すなわち神そのものであり, Eliot にとって認識可能な神と言えば, キリストに他ならない。 現実世界はヘーラクライトスの言うとおり 「動」 に明け暮れ, 変化して留まらないが、心をこらして見るとき,そこに不動の一点が見出される。 矛盾と相克に満ちた大自然も、 また人間世界も, 宇宙の壮大な図柄の中に丸く収まっている (Burnt Norton)。 海の波間の一点にあの子供たちの喜びの声が聞こえる (Little Gidding)。 覚醒した霊において見れば、 万象の中に時空を超越した静止点、不変の相,存在の本質的な意義を感得することができる。 静止点は万象の「意義」 となって眼に映する。
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非時間は,常に自己を殺して愛に生き、熱誠こめて求めつづけるうちに与えられたり,また取り去られたりする。 努力なしには得られないが,しかし努力だけでも得られない。向こう側から恩恵的に与えられるものだ、と言うのである。

『四つの四重奏曲〈Four Quartets〉』「バーント・ノートン〈Burnt Norton〉」より

現在の時も過去の時も

たぶん未来の時の中にあり、

また未来の時は過去の時に含まれる

キャッツ「幸福の姿」より

幸せの姿 つかの間に消える

永遠の幸せ望むなら 心に深く求めるのだ

そしてついに 思い出を辿って甦り

新しい形で 生まれ変わった命こそ

本当の幸せの姿なのだ

もう永遠に変わらず 永遠に消えない

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