珈琲とmilkのパーセンテージ

苦かったり甘かったりするので無機質の筆や箱で切り取ってみる。

ジーザス・クライスト=スーパースター[エルサレム]-2024/03/10- 

2024年3月10日(昼)公演

自由劇場(浜松町・竹芝)

キャストさん

ジーザス・クライスト 神永 東吾
イスカリオテのユダ 佐久間 仁
マグダラのマリア 江畑 晶慧
カヤパ(大司教) 高井 治
アンナス(カヤパの義父) 一和 洋輔
司祭1 正木 棟馬
司祭2 中橋 耕平
司祭3 真田 司
シモン(使徒) 柴田 鴻洋
ペテロ(使徒) 辻 雄飛
ピラト(ローマの総督) 田島 亨祐
ヘロデ王 北澤 裕輔

【男性アンサンブル】
鈴木 貴雅 下平 尚輝 磯江 拓也 姜 大舜
佐々木 玲旺 木谷 光 鈴木 智之 松尾 篤
安斎 恵太 愛染 洸一 橋岡 未浪 寺内 淳

【女性アンサンブル】
小島 光葉 黒田 果穂 小野 実咲季 林 美菜子
安宅 小百合 大石 眞由 立川 真衣 濵嶋 紗穂里
森下 薫 佐田 遥香 北中 芹佳 立花 梨奈

あらすじ

この作品は、イエス・キリストジーザス・クライスト)が十字架にかけられるまでの最後の7日間を描いたミュージカルである。

今からおよそ2000年前、ローマ帝国領のパレスチナに一人の青年が現れた。

大工の息子ジーザスは、人々に新しい教えをとき、数々の奇跡を起こしているという。 圧政に苦しんでいた民衆たちは、たちまちジーザスの言葉に耳を傾けるようになり、彼こそ「救い主」「神の子」と讃える。

弟子の一人、イスカリオテのユダにとってジーザスは「神の子」ではなかった。
ジーザスを愛するユダには「全て御心のまま」という師の真意が理解できない。
マグダラのマリアもまたジーザスを愛していた。
彼女は、かげりの無い、純粋で献身的な愛をジーザスに注ぐ。
ジーザスが「ただの人」だと露見したとき、人々はそれを許すはずが無い。 彼らの怒りによってジーザスは押しつぶされてしまうだろう。 そう予感していたユダは、師ジーザスを裏切る決心をする。

「あなたを誰かが追い詰めるなら、私がやる」

弟子たちとの最後の食事でジーザスはこの中に裏切り者がいると指摘する。
動揺する弟子たちをよそに、ジーザスは独りゲッセマネの園で父なる神に問いかける。

「私はあなたの心が知りたい、この目であなたが見たい」

銀貨30枚と引き替えにユダは師の居場所を教え、ついにジーザスは捕らえられた。
支配者たちの間をたらい回しにされ、侮辱・嘲笑されながら抵抗しないジーザス。
いま、あまりにも無力に見える彼の姿に民衆は失望し、叫びつづける。

「彼を殺せ、十字架にかけろ」

ユダ、マリア、シモンやペテロといった弟子たち、ユダヤ教の司教、ローマ帝国総督、そして民衆。
人々の思いが交錯する中、ジーザスは十字架に向かって進んでゆく…。

ミュージカル『ジーザス・クライスト=スーパースター[エルサレム・バージョン]』作品紹介 | 劇団四季【公式サイト】 (shiki.jp)

 

作品が続いていく、ということは繋がれていくということ。

観ているうちに"らしさ"に居心地のよさを感じてしまうことは自然とあっていざ変化があっても幻影の"らしさ"を追ってしまうこともある。ただそれで"良さ"を見逃したくないなと思うわけです。なんか勿体ないよね。とは前置き。

まぁでも私はユダ穴の赤い照明変わったといわれればそんな気はするけれどもどんなだったか思い出せない程度の観客ですが。

 

複数回見ているうちに○○さんの~役を何となく覚えてしまっているなとデビューで気づくのはあるあるかと思う。

 

江畑さんの歌声は聞けば分かるようなお声ですが、ジャポの江畑マリアはあんまり江畑さんらしいと感じていた声量ある歌唱ではないように感じられました。だからエルサレムでバリバリ江畑さんの声量ある力強さのある歌声聞いてびっくりしました。これはバージョン違うからですか?何がこんなにも違うのだろう?と思って気になる。グリザベラをされてることもあって私の中に娼婦をされていても不思議に思わない歌声として記憶しているからジャポのがピュアみ増し。エルサは感情揺さぶられに見える。

ジーザスは死ね」の伸ばし、毎度のことながら低音の波の心地良さが素敵です。低音だから荒波だけど印象が荒々しくない音なの毎度気持ちいいと思います。先日は司祭1の佐野さんも低くて低音増してる良さがあってカヤパ一同の意思を感じたけど、今回は確固たる権力者カヤパが際立ってるように思えたかも。とかなんとか思う良さが吹き飛びそうなカテコふわふわなの可愛すぎるので困ります(笑)どうぞ変わらずジーザスユダ待ちをするカヤパ様であってください。

四季には時々いらっしゃるけれど役への馴染み感がすごい。もう何年アンナスをされてるのだろうと思える(笑)ただ一和さんがアンナスは結構意外だったのだけどそれこそ意外なほど馴染んでらして不思議だなぁと思いました。役者さん凄い。という感想は歌声ベース。カヤパ一同が歌枠だから余計に何でしょうけど一和さんの上半身の筋肉の柔らかさが目立つ気がする。可動域の広さをそこここで感じます。それが役に影響することもないと思うのでただの印象ですが見ていて跪く時、銀貨を投げる時などに思うだけ。

正木さんの司祭1、たぶんキャッツで知りすぎているからすぐ見つけられます(ありがたい)市場で商人から金を徴収するのにわりと早く払えよと短気っぽそうで荒々しく無理やり掴んで立ち去る。正木さんで司祭1見るとやっぱ歌うの少なくない?って冷静になれる。

全く言葉にならなくて申し訳なさすぎるんですが今回ハッと気づくと中橋さん司祭2を見ていることが多くてめちゃくちゃ気になりました。なんでなんだろう?表情かな~歌声かな~と考えるんですが理由が分かりません。もう一度チャンスが欲しいです。

いなくなって初めて気づく大切さ、というより再び真田さん司祭3を見てあまりにも刻まれてたんだなと気づきました。歌声も行動も馴染みが合ってしっくりきすぎる。司祭3のベースが完璧に真田さんです。それだけ拝見できるの有難いことだよね。

本城さんぽいと聞いていたんですが本城さんの仕草が見て取れる気がしました。ただ歌を聞いても柴田シモンには既に柴田さんの良さが既にある感じで今だけの儚さを感じます😊どんどん変わってしまって全国では柴田さんのシモンだろうからまた拝見したいなぁ

わりと私はペテロが分からないタイプなので気づきが少ないんですけど、柴田シモンと辻ペテロ仲良さげかな?二人で一つと言われればそのまま受け入れてしまいそう。最後の晩餐でもパン配りからジーザスの言葉を受けての動揺が大きく若々しい感じに見える。

山田ピラトも良かったが田島ピラトも大変いい…沁みわたる善人さ。ピラトの夢が背景に流れる鞭打ち近辺のなぜこの人が血塗られる運命なのでしょうか?と問いたくなる。私の肩入れ具合が半端ないです。手を洗ったあの三白眼のびっくり顔には同情通り越して切なくなる。

 

前回は私たちはヘロデに愛されている女と知っているように思えたのだけれど、今回は今側に仕えているが変わりはいくらでもいる女たちに見えてヘロデの孤独が増して見えました。

北澤ヘロデが聡明そうだからもし違う人生があったら…と想像してしまうところがあります。神様キャスティング間違えてない?って言いたくなるよね。ひばりのシャルルみ。

 

前回民衆が何故か猫(の座り方)だなぁと思う方が何人もいらしてなんで?と思ってたんですが今日はあんまり感じなくて謎。なんであんなに猫だったんだろう。

シモンナンバーで膝からスライディングする怪我を恐れないような民衆がいると聞いていたのだけれど確かに勢いよく飛び込んでらして活きの良さがすごい!

カテコでハイジャンプすぎる方もいらして気になったのだけどどなたなのだろう?

 

ネーミングの名前について考えるとき、私の手札の中でしっくりきてる考えのひとつが役割・役職・地位は自分を表すひとつの側面ではあるけれど全てではない感覚です。役割だけがあなたを示すものではない、という意味で。ユダ、民衆、カヤパ、ヘロデなどがジーザスに各々求める姿と伸ばしたい手と等身大の青年には格差があって心に嘘をつくわけではないが求められる姿であるには努力や忍耐が必要であるって感じ。

「昔の力はない…」

神永ジーザスだと言葉通りに思える感じもするのだけれどお話を見ていると元々力はなかったんじゃないかと私は今のところ思うわけです。背負いすぎでは?と思えることからも人間らしく感じています。

 

前々からJCSだけを見ると三度否認して物語は終わってしまうからペテロはあまりいい印象ではないよなぁと思っていました。

ペテロの否認、そして復活のイエスとの出会い② | Peter meets the resurrected Jesus

 

コーヒーミルク混ぜたてみたいな円形照明、ユダの自殺ではより範囲が広がるけれども円の外には出られない。

 

カーテンコールのアリクイの威嚇ポーズみたいなのをみんなでやるのは意味があるんだろうか?聖☆おにいさんで生半可にイェーイ十字を知っているがためにそうも見えるけど関係ないかな。

 

 

エビータの「操りやすく燃えやすいがすぐ冷める いつかは裏切られる 恩を忘れて」な民衆を繰り返し眺めて考えるのが好みだから、JCSでも勝手に期待して失望する民衆こそが私なのだと突きつけられるの何度観てもいいなと思う。自戒するの大切だよね。

誰かのためとする行動は独りよがりではないか?盲目になっていないか?他人に期待しすぎていないか?物語を追いつつ、どんな関係性だとしても好意を持っていると自覚して反省したいものだけど自信ないよなぁ、なぜなら好きだから。大なり小なり普遍の感情だから刺さるのかなと思ってる。

 

原作の場面が舞台で再現されてもそれは原作を見ればいいんじゃないかと思う(原作を超える感動はそこにない)ことについて昨日も友達と話したんだけど、既知をなぞりに足を運ぶんではなくて未知への出会いこそ心ときめくよなぁと改めて考えて。再演を繰り返しているJCSが未知への出会いをもたらすのは単純に素晴らしい作品だということに他なりませんね。

 

ジャポネスクは明確にないかと思いますが、私はエルサレムでも復活は描かれてないと今のところ思っています。カーテンコールは復活じゃなくて幸せのSomewhere*1😭と今回は感じました。とはいえ私はどこかではなく今実現して欲しい現世利益派なのでSomeday*2でありますよう願います。よろ。

*1:エストサイドストーリー

*2:ノートルダムの鐘