珈琲とmilkのパーセンテージ

苦かったり甘かったりするので無機質の筆や箱で切り取ってみる。

ドリームガールズ-2023/02/08-

2023/02/08(水)ソワレ

東京国際フォーラム ホールC

2階

スタッフさん

脚本・作詞 トム・アイン

音楽 ヘンリー・クリーガー

オリジナルブロードウェイ版演出・振付 マイケル・ベネット

演出 眞鍋卓嗣

翻訳 徐賀世子

訳詞 福田響志

音楽監督 鎮守めぐみ

美術 松井るみ

照明 齋藤茂男

音響 佐藤日出夫

衣裳 有村淳(宝塚歌劇団

ヘアメイク 岡田智江(スタジオAD)

映像 新保瑛加

振付 TETSUHARU

ピアノコンダクター/稽古ピアノ 太田裕子

歌唱指導 柳本奈都子 板垣辰治

稽古ピアノ 森本夏生 浅野直子

オーケストラコーディネート 新音楽協会

演出助手 伊達紀行

舞台監督 二瓶剛雄 廣瀬次郎

宣伝美術 榎本太郎

宣伝写真 Leslie Kee (SIGNO)

宣伝衣裳 DAN (kelemmi)

宣伝ヘアメイク 岡田智江(スタジオAD)

CHIFUMI KIYO IGARASHI(SIGNO)

 

キャストさん

ディーナ・ジョーンズ 望海風斗

エフィ・メロディ・ホワイト 村川絵梨

ローレル・ロビンソン sara

カーティス・テイラー・ジュニア spi

C.C.ホワイト 内海啓貴

ミシェル・モリス なかねかな

ジェームズ・“サンダー”・アーリー 岡田浩暉

マーティ・マディソン 駒田 一

 

高橋卓士 遠山裕介 森山大輔

石井千賀 ICHI 伊藤広祥 岡本華奈

Sarry 仙名立宗 高橋祥太 茶谷健太

菜々香 西岡寛修 原田真絢 丸山泰右 吉井乃歌

SWING CAST 高橋莉瑚 田川景一

 


www.youtube.com

ブロードウェイ・ミュージカル『ドリームガールズ』 | 梅田芸術劇場 (umegei.com)

 
 
 
 
 
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舞台はいつも自分が知っていることなどたかが知れてると否応なしに気づかせてくれます。パンフレットに書かれていた時代背景が何も分からないほどではないにしろ今まであまり触れていない部分で知らないことばかり。ついつい知らない分からないと臆してしまいますが感想は残したいので残します。もし誤りありましたら教えてくださるととても嬉しいです。ちりつも信じたいね。

 

ドリームガールズの感想は良し悪し両方流れてくるのが精神的に健全だなと眺めていて思います。好みではないという感想が許容される舞台はとても舞台らしくて個人的には好きです。

椅子

山野さんの呟き見てから気になってた"誰も座らない/座れない椅子"。ちゃんと確認したけどsolo for 2のように座ろうとしないと倒れて座れない椅子などではなく、しっかり座る用途を果たせる椅子なのに座れないように横たわっている椅子だった。

ドリームガールズはたぶん時代が近いんだろうけれどエビータを思い出すことが多い。大統領選挙を椅子取りゲームで表現した演出を思うとエリートのゲームでは椅子は四つ足で置かれているもの。黒人コミュニティではそもそも椅子が用意されていない。”椅子に座るために存在する”前提がドリームガールズの黒人コミュニティ世界にはない、上手のただひとつの椅子を除いては。

深いこと分からないので全然違うかもだけど上手のピンスポット椅子、個人的にはカーティス・黒人コミュニティみんなが作った未来の椅子なのかなと思ってる。ただ3時間誰も座らない・座れないし座る時は舞台時間での今ではないのかなって。誰かが座るための椅子を用意するための物語に見える。最初から上手のただひとつ座れる椅子はそこにある。実際にはあるけど多分最初は存在しているものではなくてみんなが望んでいるものに見える。みんなが夢見てひとりひとりは色々ありますけど全体を見ればその功績は大きいのだと思う。その功績は誰か一人によるものではないのだよね。

「ファミリー」でみんなが持ち寄る自分たちが座るためのサイズも形も違う椅子、みんなで夢見ているんだなってより刺さりました。ディーナのお母さんに電話するときなどは上手の椅子にピンスポットで未来示唆。自分の意思で座る椅子なのだろうなって。

村川エフィの親近感

村川さんのエフィが一緒にお仕事してる方に言い方も、仕草も、考え方も似てすぎていて好感しかない😂びっくり!私がその方好きだからそこはかとなく好きだな~を根底に置いて見てしまう(笑)勢いよく詰められるのが怒っているだと思ってしまう人とは村川エフィみたいな方は相性悪いのだよね。普通に話しているだけだから直るものじゃないし、その場逃れで合わせても芯が通っていない意見に屈した人にはなお詰めていくからね。適当が通じない人って目の前の人に誠実なんだと思う。かなり重ねて話してますけどだから村川エフィは好きです。

CCが途中楽屋から出てきたディーナに「楽屋から出てくるなよ」と一言するように人に阻まれ、ディーナのお母さんのお葬式でさえ近づけない距離ってところゆっくり巡らせたい。

カーティスが好きな人

映画カーティスのタイプはエフィなんだな~(カーティスのお顔が和やかでリラックスして見えたから)それなのにディーナと結婚して幸せなんだろうか?と思ったんだけどまぁでもあれはディーナとの結婚もプロデュースのうちなんだろなと思ってる。今までエフィの子供が自分の子供だと気づいたのだと思ってたけど誰の子なんだ?だったりする?

村川エフィだとspiカーティスはエフィも好きではありそうだけど目の前にいたから惹かれるくらいの感じ。「綺麗だな…」からカーティス自身が惹かれるのは、心が動くのはディーナなんだとローレルの誕生日パーティで感じます。とはいえディーナをドリームズのセンターにした時、カーティスはエフィと向き合ってたのにエフィ自らショービジネスと恋愛を混ぜて鬱陶しく嫌われにいってしまったように感じます。エフィからすると身籠って必死なのだろうけれどそれが理由であの場にいる誰も気づけないのだから悲しい(ほんとそんなことある?!って問い詰めたくなっちゃうくらいやるせない)。spiカーティスは愛している相手も、ビジネス上の女神もディーナなのは災難でもありますね。映画ではマイアミで白人男性がジミーのパフォーマンスよりディーナの美しさに惹かれていたのを見てドリームズのセンターにしていたけど舞台ではそうしなかったか、出来なかったからか要約も兼ねてカーティスがディーナに惹かれる展開は計算されてるし上手いことまとまってて素敵だな~~と思った。

俺の夢、誰にも渡さないソングから遡っても一幕と二幕の間に加山雄三さんみたいな時「幸せだなァ 僕は君といる時が一番幸せなんだ 僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ?」があったんだろうなぁと想像してる。想像してるだけで望海ディーナとspiカーティスは結婚してる夫婦感あんまないけどあんなものなのかな?一時でも結婚したのだからディーナだって惹かれる瞬間あったのだよね?夫婦の幸せ時間が割愛されてるからどんな感じで結婚したのか気になるなぁ。

カーティスの印象

あ!この人は嫌いだし分かり合えないから逃げたい!と思った初日よりも口を開くまで気づかないくらい第一印象和らいでいるイメージです。カーティスのビジネス思考だけでなく人としての愛に気づける分量が増えたのかもしれない。前半は好ましいと思うこともあるのかもしれない。

カーティスはバカにされるの弱点なほど嫌いそう。抑圧されてきたからこそ生まれた悲劇ともいうのかもしれない。エフィのOne night onlyを潰そうとするとき、背景のSteppin' To The Bad Sideによって賽が投げられ自身がバッドサイドに落ちていく予感があります。リスキーダイス。人を呪わば穴二つといいますか。また、嫌だと感じてきたことを知りすぎているから自身が受けてきたことを繰り返してしまう負のスパイラルにも見えます。実際にもそういう人って多いよなぁと思う。個人的には自分自身の”価値”というものがあるなら成功しようが失敗しようが例え何もしていなくても誰だって等しく同じだと思います。傷が癒えていないんだと思いますが自信のない人、心が傷ついた人の中には自分の価値を他人を下げることでしか感じられなくなっている方いますよね。直接言葉でぶつけていないにしてもカーティスも行動の根本が同じような気がする。一幕一番初めに出てきた時から少し休んだ方がいいのかもしれない。

カーティスの行動は自分自身を踏み台にして黒人音楽の地位向上へ貢献したのだから後の世代から見れば偉大な人物ではあるんだろうなぁ。カーティスがそれをBIGだと自分で認められるかは分からないけれど。望月の歌は味わわずショービジネスの人は常にさらにさらにと狡猾に求めていくものなのだろうか。それって終わりなくてしんどい道だよね。

「得たものをいつも次の夢に賭け こわしながら築き 築きながらこわすからこそ 幻の塔は 果てしなく高く 月への道は 果てしなく遠い だから 猫たちは 永遠に青春なのだ と」

ハングリー・キャッツ より

ショービジネスってそういうものなんだろうか?少なくとも道に捧げる人と賭ける人とでは違いがありそうってのは繰り返し思うところです。同じ世界でもきっと感覚の差異ありそう。カーティスは捧げるけどディーナは賭ける人。カーティスは悪事をしてでも捧げた。ディーナには教師の道もあったのに歌手に賭けた。

この日のカーティスの演説は最後の最後に力がなくなっていくような、仮面が次第に剥がれて「俺が壊した…!」の心象風景が表れる印象でした。たぶん本当の演説は仮面のまま行われて次第に本心へ変わっているんでしょうね。伝わらないと思うんだけどエビータ(お互い利用しあおうと近づく女優)を自室へエスコートしておきながらドア前で思い出したように”しまった…!ミストレス(少女)がいるんだったどうしよう💦”みたいな顔する福井ペロン見た気持ち思い出す。つまりいやいや分かっていたでしょう?ってこと。カーティス、自分が壊しているの分かっていたから泣いてしまうのだろうけれど”俺は知らない”としか返答出来ない。

なんだかんだ日常で今まで出会ってきた方々がよぎるからこそ一目見て感じる思考が印象悪いのだろうからリアルと虚構の間。自分のやり方ならば上手く言っただろう、誰々の方法に従えば上手くいくだろう、そう考える方が沢山いるから自己啓発があるわけでもし実行できるチャンスが来て実際に行えたらどうなるのか、自ら選び信じた道を信じられなくなった時どうすればいいのか、そのひとつの結果を物語だからこそ伝えてくれているとも感じます。

Steppin' To The Bad Side

身体を止めて一部抜いたように動くSteppin' ハンパなく刺さりますね。そもそもspiさんのダンス刺さるから!

spiさんらしくてほんと好きってなるのは祭2018『Real Love』みたくとどめた中にフッと身体一部分だけ抜けて自由になるSteppin' !あの身体で手足の届く範囲はまだまだ広いと分かるのに小出しにしか伸ばさない。慎重に大胆に計画を進めている場面そのもの。実力を隠しているからこそ空間を広く感じる。

This Jesus Must Die - 2000 Film | Jesus Christ Superstar - YouTube

ステッピントゥーザの前「考えさせてくれ」のあたりはJCSのカヤパ会議(This Jesus Must Die)みたい。不穏な感じ。

Opening Sing Sing Sing - GONE WITH THE BULLETS - Keith Young Choreography - YouTube

この方もSteppin' で思い出す。黒ハット、黒コートであの踊りソンダン感が強いのだけど65のマキャナンバーかな?既視感あるのになんだかよく分からない。ずっと思ってるけどものすごく西尾さんが似合いそうな振付。

リードボーカルのディーナ

映画カーティス、意見などは合わないけど悔しいくらいにプロデュースされたディーナが好きだ~~って思う。大衆受けするとカーティスが差し出した女性像が素敵すぎるから「映画クレオパトラはイメージにそぐわない」と一蹴するカーティスに悔しい思いする。私もカーティスプロデュースのディーナに加担してる一人だと感じるから。

舞台、2幕始めのショータイムでのパリ、ロンドン…「香水の名前は破壊」これは望海さんディーナが映える演出なのだろうか?の気持ちが生まれてしまう。カーティスは映画について「(ディーナには)地味すぎる!」と否定するけどそれもあって2幕始めのショータイムになるの?魅力的に思う人もいるかもしれないけど何か違う…勿体ないなぁの気持ちになります。ラストの華々しく上品な姿・きらびやかで女性として格好いい望海ディーナはこれこそが見たい姿と感じるのもあってかも。

これだけディーナのグッズが多く、主役と言われていることからしても事前情報でディーナに"この人を観に行く"スター性が必要。なぜこの人がこの役なのか?主役なのか?を思わせるためのキャスティングなのだから現実と舞台の狭間で全てを成り立たせているのが望海風斗さんなんだなとは初見で思って書き損ねたので合わせて書いておきます。

ショービズ

ドリームガールズ振り返ってて軋轢を乗り越え実力が評価され、自身のしたい道を選ぶこの結末を迎えられることの方が稀有なのではないか?実力があっても評価されないとか、カーティスと共に憧れの存在になっていくとかそういう結末の方がありそう。ファン目線も加算されてこの結末がドリームなのは嫌だよなって気持ちになります。権力やお金につぶされないで評価されて欲しい。例え平等に評価された結果、選ばれないこともあるでしょうけど。

自分の選択で夢を叶えようとするディーナを見ることで周りのみんながそれぞれの方法、考え方で頂点を目指しているのだと俯瞰したような心地になりました。ドリームガールズの物語では成功、失敗が明確に分かれましたが状況が少し違えばカーティスのいう音楽を混ぜるは正しくニューサウンドになっているのだとガーシュウィンを思い出しました。詳しくは知らないながらも"アタる"ものを求めるのはショービズの宿命なのかもしれない。

ジミー

ジミーのベイベー(右へ手をのばす)、ベイベー(左へ手をのばす)を繰り返す曲の歌声どなたかを思い出すような歌声?と思うんだけどアーティストのストックがなくて全く浮かばない。誰だろう?

ジミーが失神パフォーマンスで誰も倒れないと落ち込んだり、「俺は誰にも利用されない」とカッとなったりするのはマーティの前。取り繕わなくていいという甘えなんだろうな。幼い頃からスターなら孤独ではあるのだろうし甘えられる相手がいるのも大切だけどもう少し自立する必要はあったんだろうなぁ。舞台のがマイルドだったけどマーティのジミーに対する態度はまぁなかなかだなと毎度思う。ジミーが言ったなら黒も白になる全肯定マーティスタイルは現実にきっとあるだろなと感じます。マーティはジミーにとっては良くも悪くもあり、エフィは尽くし方や甘さ優しさによって救われる。組み合わせとハマり方によりけり。個人的にはパンフレットの駒田さんが仰っている未来がきたら良いなと思ってます✨お互い成長したら同じ関係にはきっとならないよね!

その他

★「泣かないってローレルと約束したわよね。」「そうよね。言ったわよね!」

大体こんなだったと思うけどこの言い方が2度見て2度気になってしまった。これ意図的?なんでいきなりこんな不思議な語尾チョイスなんだろう?語尾だけで女性って分かるから?

 

コントラバス弾いてた時、こんなふうに弾けたらなあと憧れてた方がDGのベースされてるみたい。聞くたびにそこはかとなく嬉しい気持ち🎵contrabass concerto 1mov. - YouTube

 

★そういえばディーナが出たい映画の役は『ドリームガールズ』のディーナってことなのかな?→出演したい映画がビリー・ホリデイの伝記映画なのでは?と呟きを拝見して。本当に残念なのだけど私には圧倒的に知識が足りなくて少し調べただけでは確かめられませんでした。松竹で舞台の映画かな?あるみたいだしこの先、数年間の宿題にします。

 

★Dream girls以降、衣装はディーナに合わせて作られていてエフィには似合わないのが見た目で分かるんだよね、と何度も聞いていてほんとダンス10、ルックス3って思う。

 

★長く続いているユニモンをこないだ初めて見たからより思うんですがやっぱり初回はとても大切で自分にとっての基準になる。初演・オリジナルキャストは誰にとっても"初めて"だと思うと改めておめでとうございます👏

 

アポロシアターでお金は受け取るけどカーティスの見下した態度には反抗的な司会に続いて「Cadillac Car」の収録以降カーティスの夢に同調して力になってくれる方の台詞のニュアンス?言い方?がとても好き!どなただろう!

 

★ローレル元々好きだなと感じてたけどsaraさんのローレルかわいい↔️かっこいいの成長と変わらなさがとても好き🥰歌声かっこいいのも痺れる~~

 

★DGはしっかり物語があるから物語を見ている方が多いと思うんだけど登場人物のあれこれ見てウワーーーーいつも考えてることだーーーってなる方もいるんだろうか?ってもう映画見てからずっと気になっててたぶん何度か呟いてる。

 

★望海さん舞台で拝見するのは今回が初めてだけどオーブのラミンさん出る公演にメッセージ寄せてらした記憶ある!めっちゃファンなんだなって😊おめでとうございます~~

 

カーティスコレクション👣

Patti Austin「Kiss」を聞いてる感じで。

シャツのボタンめっちゃかわいい😂物語から離れて冷静に見るとカーティスのセルフプロデュースこんなに素敵なんだなぁ!

淡い色合いを合わせるってお洒落だなとマジック・イン・ムーンライトから気づいたけど爽やかに見えそうなのにアウトローみ香るの素敵✨

この表情かわいらしすぎる~~想像に役立てると鋭い目のカーティスが自分にだけこの笑みを見せてくれるのだとエフィが思ってたらそれはとても嬉しいんじゃないかな?なんて(笑)いやはやめっちゃいい笑顔!笑顔って素敵な表情だけれどspiさんの笑顔は周りもあたたかにするひまわりのような笑顔だよね。オールオッケー👌って感じ。

細かく見せてくださってありがたい🙏嬉しいです!!

恥ずべき崇高さ、偉大なる屈辱

当たるか、当たらないか。それだけが問題だ

安倍 ルイ・ジュヴェの言葉で、正確には覚えていないんだけれど、芝居の当たりについて言ってるアフォリズムがあったね。それをあなたが若いときからよく口にしていた。

浅利 ええ、「演劇の問題」というエッセイのなかのジュヴェの言葉なんだけれど、かいつまんで言うとこういう内容なんだ。演劇ほどいろいろな問題にあふれてるものはない。芸術的なことから経済面まで演劇はありとあらゆる問題を抱えている。それにもかかわらず、本質的な問題はたったひとつしかない。それは当たり”の問題だと言うんだ。芝居が当たるか当たらないか。それだけが問題だとジュヴェは言っている。初めてそれを読んだときには慶応高校の学生だったので、ルイ・ジュヴェという人はかなり商業的な考えの人なんだなあという印象を持った。しかし、のちに自分が劇団の経営者として仕事を続けるようになってから読み直したとき、ジュヴェが演劇についてより深い秘密を語っているということに気がついた。 厳密な表現は忘たけれど、ジュヴェは「きょうの劇場の賑わいがなければ、われわれ芝居者は主演俳優から裏方のひとりまで生きていくことはできない」という意味のことを言っている。芝居にお客さまが来なければ、簡単にテレビかなんかに出て食べてしまうどこかの国の演劇人とは違うんだな。 「したがって、当たりをとるためには、時に時代の流行に身を屈さねばならないこともある」と言っています。こういう姿勢をとることをジュヴェは「恥ずべき崇高さ、偉大なる屈辱」と呼んでいる。そしてここに、われわれの職業の秘密を解くすべての鍵があるとも言っています。この言葉が以後の僕の芝居者としての人生をどれほど支えてくれたかわからない。この「恥ずべき崇高さ、偉大なる屈辱」に対峙し、乗り越えることなく去ってしまったのが加藤道夫さんだと思う。そういう意味で、加藤さんの死は逆にかなえられない純粋さ”を求めた魂の死なんだ。演劇は非常に人臭い芸術です。 そこには妥協や羨望やさまざまな人間の感情が渦を巻いている。こういう決して美しくはない、もしかしたら腐っているかもしれない肥料から栄養を吸収しながら、演劇は芸術の花を咲かせることができるのだと思う。加藤さんはその汚濁のなかに手を突っ込むことができなかった。加藤さんは四季の旗揚げを目前にしてその命を絶たれた。 僕等は第二回目公演として、アヌイの『アンチゴース」という芝居をとり上げたんだけど、その主人公のアンチゴーヌと加藤さんの生き方が僕にはだぶって見えて仕方がなかった。加藤さんもアンチゴーヌも人生に対し「ノン」と言ったんだ。自らの理想を守るために現実を拒否した。 しかしそれは不毛だと思う。 この否定からは何も生まれてこない。演劇活動を続けていくために、たとえ心は「ノン」と言っても、僕等は人生に「ウィ」と言わなくてはならない。「ウィ」と言うことは、まさに現実を引き受けることだ。『アンチゴーヌ」で言えばクレオンの生き方です。心に理想を保ちながら現実とどう折り合っていくか、それが演劇人に課せられたきわめて危険で困難な問題なんだ。そういう壁にぶつかったとき、ジュヴェの「恥ずべき崇高さ、偉大なる屈辱」という言葉が痛いほど身にみる。

劇団四季MUSICALS』

浅利慶太ロング対談「恥ずべき崇高さ、偉大なる屈辱」 “偉大なる屈辱”を越えて より

映画を見てからそう思っているのだけどカーティスは浅利さんを思い出す。だからbridgeをきっかけに読んだこの本の対談を思い出しました。引用の内容分かってるところもあると思う。けれどそれは撫でているようなもので本当に身に染みているわけではない。内容が分かるわけではないけれど私が観劇にハマった時、既に自由劇場がありました。途中から浅利事務所が出来て劇団四季の公演が二分割されました。浅利事務所の公演はストプレや一部のミュージカル作品(昭和三部作やユタ、夢醒め)でそれらの作品の浅利事務所が出来る前の客席の様子など。総合して考えた時に私は勝手に”当たり”度外視なんじゃないか?本当に上演したい作品、残していきたい作品を公演されているのではないか?と思いました。実際のところは何も知らないけれど私のちょっとばかりの体感を織り交ぜてドリームガールズを見てしまいます。

浅利 日本で、長嶋が巨人に復帰するというニュースが大きな話題になるのと同じようにニューヨークは新しいミュージカルの出現がみんなの注目の的になる。日本ではどうしてそうならなかったんだろう。 僕は作り手の怠慢だと思う。本当にお客さまが望むものを作ってこなかったり、見やすい興行形態を工夫せずにきたからだよ。お客さまのことを本当の意味で考えてこなかったせいだ。僕の父より上の世代はもっと客席を大事にしてたと思う。尾上松緑さんといっしょに仕事をさせていただいたときにもそれを感じたんだ。 日生劇場サルトルの『悪魔と神』をやったとき、松緑さんにゲッツの役で出ていただいた。松緑さんは「浅利さん、きょうの見物のご機嫌はいかがですか」とお聞きになるんだ。“観客の反応”じゃなくて “見物のご機嫌”なんだよ。そういう客席への姿勢が今は失われてる。

安倍 「きょうの見物のご機嫌はいかがですか」ね。日本語としても実に見事な表現だ

浅利 英語だったら、自分の芝居のことをなんて言う。たとえばロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの演出家が言うとしたら……

安倍 英米の演劇人たちはショウという言葉をよく使うね。ショウというと、舞台芸術のなかでも軽い分野のものを指すと受けとられがちだけれど実際は違う。この言葉を日本語に訳すと、いちばん適切なのは見せ物だ。シェイクスピアもミュージカルも基本的には見せ物なんだよ。お客さまに喜んでいただくという点ではね。ショウという言葉には、「はい、大芸術でございます」という大上段に振りかぶったニュアンスはまったく感じられない。

浅利 そう、あくまでも“マイ・ショウ”であって“マイ・パフォーミング・アーツ”ではない。僕は、自分の舞台をショウと感じるその感覚が大事だと思うんだ。 見物が観客になり、芝居が演劇になったときから堕落が始まったような気がする。

安倍 ショウで思い出したんだけれど、ショウ・ビジネスという言葉があるね。日本の現代劇、とくに新劇はアートに片寄り過ぎてビジネスを忘れてきた節がある。不遜にアートを自負し過ぎることも困るし、アートをないがしろにしてビジネス一辺倒というのもまた困る。先に挙げたジュヴェのアフォリズムに一脈通じていることだけれど、演劇人はアートとビジネスの両方に目配りをきかせなければならないわけだね。そのことを自覚し実践している点で、あなたは現代演劇界では希有な人だと思うよ。

浅利 これからもジュヴェの言葉を支えに、「恥ずべき崇高さと偉大なる屈辱」のはざ間で演劇運動をやっていきますよ。そして“当たり”をとって、次の時代の人たちのために道を切り開いていきたいと思ってる。

劇団四季MUSICALS』

浅利慶太ロング対談「恥ずべき崇高さ、偉大なる屈辱」 “偉大なる屈辱”を越えて より

その切り開いてこられた興行形態(ロングラン公演)や専用劇場、チケットぴあのシステムなど今の私・観客が当たり前だと思っているものの多くが関わりを持っていると思います。劇団四季以外の公演を観に行く時、劇団四季に関わっている方がどれだけいるかもお名前を見て感じます、このドリームガールズも例外ではないように。

 
 
 
 
 
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