珈琲とmilkのパーセンテージ

苦かったり甘かったりするので無機質の筆や箱で切り取ってみる。

シュレック-2023/07/30-

2023/07/30(日)マチネ 千秋楽

日本青年館ホール

キャストさん

シュレック spi

フィオナ 福田えり

ドンキー 吉田純也

ファークアード卿 泉見洋平

 

ジンジャーブレッドマン、魔女、ママオーガ 岡村さやか

ドラゴン 、 母熊 須藤香菜

ピノキオ 新里宏太

オオカミ、ハロルド、兵士、騎士、 ねずみ 佐々木 誠

セロニアス、村人、騎士、 ドワーフ 鈴木たけゆき

3匹のこぶた、兵士、デュロックパフォーマー、騎士、笛吹き 岩崎巧馬

グリーター、村人、デュロックパフォーマー、 市民 清水泰雄

パパベア、パパオーガ、兵士、 ねずみ 深堀景介

ピーターパン、 ねずみ、兵士、デュロックパフォーマー 村上貴亮

兵士、 ねずみ、 司教 横田剛基

3匹のこぶた、兵士、デュロックパフォーマー、 ねずみ 中桐聖弥

村人、兵士、デュロックパフォーマー、盲目ねずみ 咲良

リリアン、兵士、 青い鳥、ねずみ 元榮菜摘

ハンプティダンプティ、デュロックパフォーマー、 ねずみ 寺町有美子

3匹のこぶた、デュロックパフォーマー 澤田真里愛

ティーンフィオナ、村人、 盲目ねずみ、 市民 石田彩夏

みにくいアヒルの子、デュロックパフォーマー、 盲目ねずみ 青山瑠里

ヤングフィオナ ⽮⼭ 花

ヤングシュレック 本⽊ ⿇由花

youtu.be

シュレック・ザ・ミュージカル <オフィシャルHP> (shrek-musical.jp)

spiさんシュレック、初の人と共に!見てもらいたかったから嬉しかったなぁ☺

はじめての劇場、ミュージカル

好きな人しか集っていない公演に出会ったことあるか?その経験にもよるんですが好きな役者さんを見に来るんではなくて好きな演目を見に来ましたの空間。初見率の低さは空気から分かるあの静けさ。そういった好きに包まれる良さもあるけど"はじめて"に寛容な空気感はとても貴重だよねという話を開演前にちょうどしていました。好きな人しか集っていない公演の怖さは反応が定まってることかなと思います。私たちの作る完璧な公演が意図して作れてしまう、それが良くも悪くもある。拍手一つで目くじらはやりすぎはよくないぞ?ってやっぱ思うもんね。その点、シュレックはお子さんが多いのもあって客席の自由度高く雰囲気だけで言えば舞台よりテーマパークのショー寄りかなと思います。多少泣いたり喋ったりしても全然気にならないです。たぶん拍手しないのも気にならないんじゃないでしょうか。どっちでもいいよの雰囲気といいますか肩ひじ張らないでって感じ。壁を壊す、一歩踏み出すが舞台上だけでなく客席でも行われてるように感じました☺️

ビリー・エリオットにも客席に沢山家族連れ、子供たちがいたけれどゆくゆくは舞台に立ちたいと夢を持ってる子も多いんじゃないか?と思えて少し年齢が上だったのかもしれない。シュレックは本当に舞台が初めてのお子さんが多かったように感じられました。

シュレックの環境

壁を作るというのは環境の可視化だと思って。自分がいて自分がいる場所があってその場所の範囲の外側がある。環境の中心は言葉通り環(輪)だというのが私が環境という言葉の好きなところ。真ん中に据える主体は点じゃなく環。環に関わる周りの状況なのがとてもいい。環の中って一人な感じしなくないですか?生きている以上一人にはなれないとも一人にさせないとも感じます。シュレックの環境に隣り合うのがドンキーの環境だったのは得難いものですよね。

アメリカで作られる

あれだけ動物出てきたら、タップするネズミが出てきたらキャッツパロあってもいいんじゃないかと思うけど多分ないよね?あんまりにもALW作品、イギリスミュージカルの台頭を嘆くのを聞くからもしかしてアメリカミュージカルパロディしかない?"アメリカ産ミュージカル"にとてもこだわっている??ミュージカルはアメリカのアイデンティティなの?と思ったけどこれだけ社会規範から一歩踏み出せ、違いが個性、存在を認めろと主張してるミュージカルでそれはないかなと考え直しました。アメリカにパロ先を絞ったって感じなのかも。

社会規範(social norm)

社会や集団のなかで,ある事項に関して成員たちに期待されている意見,態度,行動の型のこと。その社会に広がる価値体系が成員に内在化されたもので,成員の遵守行為によって顕在化する。広義の社会規範のなかには慣習,伝統,流行,モーレス,法などが含まれるが,それぞれはその存続を保障し,正当性を根拠づける性質の違いによって区別される。正当性の保障が単に人々によって繰返し行われ,また昔から行われてきたということ,あるいは行為そのものの「新しさ」にのみあるようなものと,法のように外的強制を伴うものとがある。いずれにしろ社会規範は,これより逸脱した言動を示す成員に対しては,勧告,罰などを用いて従わせるように圧力を加えるものである。

社会規範(しゃかいきはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 

細々

・アダムパスカルさんのチラシ入ってて開演前に思い出してたんだけど途中One song glory冒頭みたいな音するのハッとする!

・フィオナ3人で歌う曲の途中も自由を求めてぽい感じ。

シュレックの夢のひとつ、怪物をやっつけてお姫様を助けるヒーローになる。今しがたしてきたことに重なりすぎる情景と純粋な夢を聞いたドンキーがしっかり泣いてくれてるのとてもやさしい。ヒーローのくだり、「本当の俺じゃない」みたいだなと思ったり(私がティボルト好きなのでそう考えちゃうだけだと思う)

・「Don't Let Me Go」柿原さんのDon't Let Mi Fall in LOVEと同じ感じで音階・ドレミなんだよね?、たぶん🍩

・パパベアの台詞、歌声が安心して聞けて好きです🐻

・喋るロバなんておかしい!と聞くと日本にはキティちゃんもニャースもいますし、アメリカでは話すネズミもいますし珍しいことではないのでは??という気がしてくるよね(笑)

・吊り橋効果感じるマグマの池場面。これ友情だけど恋愛フラグが立つ雰囲気の曲だなってなるのすごい(笑)シュレックの助けを借りてドンキーが吊り橋を一歩づつ踏み出すを手助けする場面がドンキーの助けを借りてシュレックが壁の向こうへ一歩踏み出すに重なってるんかな。

・フィオナの「プリンセスに醜さはマッチしないわ」聞いて立ち去るシュレック、怒りが満ちみちて明らかに身体大きく見せるようにがしがしと退場していく。この怒りは悲しみの代用なんだろうか?怒りが深く大きいのを感じてspiさんのシュレックだなぁと思って。

・エンドウ前の上に寝るお話確かに思い出して落っこちるのって何かあるんだろか?ハンプティーダンプティーしか浮かばない😭

ハンプティ・ダンプティ 歌詞の意味 アリス マザーグース

シュレックのご両親がシュレックに対して美しい世界もない、友達も出来ないと否定するの本公演からだというの自信持てなかったんだけどやっぱ違うよね?両親から否定されると役割を生きる感じが強まる印象!トライアウトの両親には肯定されてたけど熊手で追いかけられて実際には美しい世界、友達はいないと知るより先に結末を知って見ていけるような。

・ファークアードを肯定するつもりはないけどオーガのシュレックがヒーローになるのも、フィオナか真の姿になるのも、おとぎ話の住人たちが自分を認めるのもファークアード発端だろうと思うとなかなか偉業ではある。人騒がせですが。

・特別言う必要もないかなと思ってたんだけどファークアード、これはドイツなんだろなと感じるわけ。

Freak Fragについて

前回シュレックの歌ではなくておとぎ話の住人たちの歌だったという点はスッキリしました。そうそうちょうどその事を考えていたんだよ!と思った舞台は今までもあったけど、それはそうだよなぁ(当たり前では?)に出会ったのは初めてだと思ってる。そういうのって私がメッセージを届けたい対象ではない・必要ないってことになるのかなぁ。ちょっとさびしく感じるけどまぁ良いことなのかも。

追記:公演とても楽しかったです!ただこのナンバー周辺をずっと考えてしまうから今現在思う理由をあれこれ書き残しました。勿論批判ではないです。

自己肯定感が高い人間なのか

人間に飼い馴らされることを拒否して、逆境に負けずしたたかに生き抜き、自らの人生を謳歌する強い心と無限の個性、行動力を持つ猫、それがジェリクルキャッツ。

ストーリー|『キャッツ』作品紹介|劇団四季

キャッツで納得しているからかもしれませんがわりと最初から違いは個性だ!にその通りだなぁ個性とはそういうものだよ強みだものと思ってる節あって。個性を認めろと主張しなくてもいいのではないか?の感覚は個性を誇っている姿を知ってるからかもしれない。例え同じことをしても滲んでしまうらしさが個性では?と思うから我々は違うんですと言われても知ってるよと思えて私にとって新しい価値観ではなく当たり前のことを観ているよう。

物事を”変える”のは社会的強者

社会のルールを変えられるのは社会的強者、マジョリティなことが多いんでしょう。さっきの嫌だと思ったら変えるは根本的に社会的弱者が変えていくのはもしかしたら難しいのかもしれない。出来ない場合もあるにせよ正面から体当たりするのではなく相手が何を大切にしているのかまた自分たちに何を望んでいるのか受け入れ、お互いの妥協点を探し、自分たちの主張が受け入れられる方法を探していくのが大切なんじゃないかという社会環境問題のお話。

人間の社会生活のあり方を規定し方向づける条件となる環境には、外部環境と内部環境とがある。前者は自然環境であり、後者が社会環境である。社会環境の概念はおもに社会学によって明らかにされた。古くはデュルケームの『社会分業論』(1893)、最近ではパーソンズの『社会体系論』(1951)において論及されている。それは、(1)その社会の大多数の成員が共有するパーソナリティー特性(国民性、社会的性格)、(2)彼らの相互行為を長期にわたり安定的に持続させるための基準枠となる共通の規範的文化システム(コミュニケーションを可能にする意味と象徴の体系を含む)、(3)その相互行為が累積定着したものとしての社会制度や伝統、からなる。社会生活は、人々がこの社会環境と相互に依存浸透しあう過程であるが、社会環境は本来人間がつくるものであるから、それに一方的に規定されるだけでなく、それを計画的につくり改革する人間の側からの主体的、能動的な働きかけがほしい。

社会環境(しゃかいかんきょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

ピノキオ

ピノキオの理想

「僕は人間の男の子だよ?」と言うけれど実際には男の子になりたい木で出来た人形と知っている。でも木の人形は人間にはなれない。

自己の受け入れと問題解決

ナンバー中に「僕は木の人形だけどこれは変なことじゃないんだ」と現状を受け止めています(ここ誤っていたら教えて欲しいです🙇)明らかに違うと知っていながら男の子と自分を欺いて生きようとしていたピノキオが現状を受け入れて納得・問題解決するのだろうか?事実を聞いて受け入れられる話だったんだろうか?

自分を愛し、自分にも人にも愛されることでした

演出家同士での打ち合わせとは珍しいですね。 かなり濃密なものになったのではないですか。

面白かった。特に印象的だったのは彼の「リアルにやりたいんだ」という言葉です。実際のオーディションにお客様が立ち会っているようにやりたい、だからノーメイクアップでやってくれ、というのです。ところが原作には黒人のリチー役の人が 「I'm Black」と自己紹介する場面がある。黒人が自分は黒いと言うのだから、観客は笑う。しかし日本人は皆同じ肌の色ですから、メイクアップしないと 「I'm Black」 という台詞は使えません。僕がそう言うと、彼が不思議なことを言った。「何故、日本で黒人を使わなければいけないんだ。アメリカではこういう劇の場合、 黒人が出ないと差別のプロダクションと言われる。日本にはそんな事情はないだろう」。 さらに彼の提案は大胆でした。 「私が求めているのは、同じような観客の反応なのだ。 アメリカン・ジョークで日本人に合わないものは、エピソードを変えてもいい。 リチーは思い込みの激しい南部の、男臭い男ということが肝心のイメージなのだが、日本にもそういうところがないだろうか」。そこで僕が「日本の熊本という所には、肥後もっこすという、似たタイプの男たちがいる」というと、「それでいい。 「I'm Black」のセリフの変更も全部あなたに任せる」と。日本初日に僕とマイケルは監督室から二人で舞台を観ていました。そしていよいよ「I'm Black」の場面になったとき、俳優は黒人でないのに、観客が笑った。横にいたマイケルが驚いて「どう変えたのか」と聞くから、 「I'm a man」 と自己紹介させたんだ」と説明しました。 彼は非常に気に入って、黒人が出ない時は、全て貴方の演出を使わせてほしいと言っていました。

コーラスラインパンフレットより

Freak Fragを掲げてありのまま生きていく。とても失礼ながらピノキオが男の子だと思っていた人ってピノキオ以外いないんじゃないかと思う。「ありのままを受け入れろ」は自分にも他者にもかかってくる台詞でした。ピノキオに関しては自分が受け入れられるかの割合高いはずです。ピノキオは男の子になりたい木の人形と納得して受け入れてもらえば自分自身を好きになれるのだろうか?ピノキオとしては大きな変化だとしても周りからすると当たり前のことを言っているにどうしてもなってしまう気がしていて主張すれば「見れば分かるよ」と言われる機会増やすと思うんだけど傷つかないんだろうか?

主張するのに悩ましくなる気持ちがthis is meと近しいものならば強者がこれが私よと主張して見せてるもしくは同じような人たちの間で主張するなら単なる意思反映だけど弱者から強者への主張は見世物の側面出てこないだろうか?本人が意図していなくても消費する娯楽になりにいってしまってるのでは?と感じて気になる。杞憂だったら嬉しい。

Freak Fragを掲げる意味

旗を掲げるが比喩だったとしても社会規範や価値観の押しつけから逃れてありのまま生きる表明だと感じました。

ありのままとは?

他者を気にせず自分の思うまましたいままに行動するありのままは「Let it go(アナと雪の女王)」から氷の城を建てるほどのエルサの力で町中が凍りつく結果まで含めてどうなるのか分かります。

個人的にありのままは自分が好きな自分を愛してもらうことなんじゃないかと今のところ考えています。行動の過程、結果で他者が喜ぶのではなく自分が喜べるのかは大切だと思っています。大切にした自分を愛してもらうのがありのまま生きるかなと。

"何をしても何割かの人に嫌われる。嫌われるのは気にしない方がいい。"みたいなのよく見かけますけど私は半分違うんじゃないかといつも思う。何をしても嫌われるというのは本当だと思います。ただ嫌われるのを気にしなくていいは違うよなと思います。私は自分のことを好きだと思ってくれる方がいたらとても嬉しいという欲あります。それを否定しない方がいいんじゃないかと思う。程度にもよる話だけど嫌われるのを気にしない=周りのことは気にせず自分の思うまま、ありのままさらけ出す=行動を変えた結果、新たに嫌いだと思う方が出てくる。それに耐えられるかって話。だから好かれたいと思ってる自分も大切にして自分が好きでいられる塩梅でありのままがいいんじゃないかとお節介ながら思う。

Freak Fragは自己肯定に繋がるのか?

旗を掲げるって相手から見える以外にも味方にも未来にも象徴として残るわけですよね。FREAKという言葉を誇りにしていけるのかが気にかかるのかな。ワンピースでもウソップが撃ち抜きますけど旗って良い的です。自分自身が的になっても自分を愛せるのか。"FREAKは私にとって褒め言葉だから言っていただくととても嬉しい気持ちになる"が本心なら私も安心するところです。

ヒッピーの引用

ヒッピー・ムーブメントとは、簡潔に言えば米サンフランシスコを起源とするカウンター・カルチャーであり、緩やかな社会変革運動のことである。

街角では爆音の音楽が流れ、LSDの効果で恍惚となりながら両手をあげて踊り狂う人々がいたりと、とにかく「何でもアリ」の自由な空気が満ち満ちていたのだ。

そこに集まっていたヒッピーの多くは、15~25才のアメリカ白人であり、ドレスコードエスニック風のビーズネックレスに、ヒゲにサンダルか裸足の男、ロングスカートやスモック、さらにヘッドバンドやアメリカ・インディアン風のファッション。ボディコンシャスな格好は皆無で、拘束感の少ないリラックスしたエスニック感がポイントとなった。

ヒッピー達にとって大事だったのは、このエスニックつまり「異文化感」だ。その理由は自分たちの属するアメリ中流文化に「ノー」を突きつけようとしていたからで、官僚や大企業など、進学競争や出世競争をしてきた自分の父親のような会社人間になることへの反対。それは戦後のアメリカが礼賛してきた物質主義や、中産階級的な道徳観や、規律などへのカウンターだったのだ。

ヒッピーは、当時、反戦運動公民権運動の旗手となった新左翼の大学生たちとは違い、政治変革は目指していなかった。むしろその本質はPower to the People。個人の手に力を取り戻し、自力で暮らしを建て直し、個人と個人のネットワークにより社会変革を目指すことが思想の根幹でありヒッピー・ムーブメントの本質だった。コミューン(共同生活)を通して、身のまわりから世界を変えることができると信じた人々がヒッピーだったのだ。

21th century 's hippie | Epokal エポカル

変わってる=個性=普通で終わらず、主張が入るのは物語のデュロック王国内の市民権を得るぞ!をジミ・ヘンドリックスの曲よりFreak Fragを引用しヒッピーと重ねて表現しているのだよね?調べていく過程でヒッピーに参加している多くの人々にとって異文化感だったものが自分たちの文化である場合どうなるのだろう?という疑問が生まれました。おとぎ話の住人達も異文化ではなく自分たちの話をしているように思うから。