珈琲とmilkのパーセンテージ

苦かったり甘かったりするので無機質の筆や箱で切り取ってみる。

EPITAPH東京

 

『EPITAPH東京』

すべて読んで終わっても続いているお話。

具体的に話しているからこそ全体としては抽象的な印象です。

初めが赤羽橋でシンボリックだなと思ったりするように

読者により引っかかる東京が違うんだろうなぁ、

そして東京に持ち合わせてる印象によっても。 

シンボリックなんて普段頭に浮かべたことないのに呟こうかなぁと思うと

急に出てくるの不思議だなぁといつも思う

(でも普段使わないから意味間違わないよう毎度調べないとなのがアレですが)

 

沢山の本があるのだから色々な方面知りたいのに

同じ作者の本ばかり読んじゃうんだよね、好きだからなんだけど、

と欲しい答えの見えることを聞いて

そんなものじゃない?という言葉にそんなものかなぁと一応思ってみたりなどして。

 

キャッツへ行く道すがら、

ロミオとジュリエットを読んでいたら5、6駅乗り過ごして

劇場まで気が気じゃなかったから電車で本読むのやめていたけど

そろそろ気をつけながらならいいかなと思い始めてる。

電車の中ってなんで集中しすぎるんだろう?

 

 

 

戯曲 

エピタフ東京という戯曲を筆者Kが書いています。

まぁあくまで印象かなぁとも思うけど「曖、燦々と。夢、揚々と。」を思い出します。

都市の近いようで近くない間柄もあってなのかも。

#23.5「曖、燦々と。夢、揚々と。」−2019/11/22− - 珈琲とmilkのパーセンテージ

私、エピタフ東京の舞台よく分からないでは行けるけど

内容を知っていて行けるかと言ったら否かな?

好みとは言い難いけれど東京は興味深いテーマ。

 

 

 

巡る記号

途中で過去感想見ていたらモチーフとしては

繰り返し出てきているんだなぁと思って。

人として一生を生き抜いて、

また別の人間に記憶ごと引き継がれるタイプの永遠の命を持った吸血鬼。

吸血鬼という言葉は

「ねえ、芝居って吸血鬼に似てるわね。〜」『中庭の出来事』で見ていたらしい

覚えてなかった。

中庭の出来事 - 珈琲とmilkのパーセンテージ

印象としてはメガロマニアのようなエッセイに近く感じます。

メガロマニア - 珈琲とmilkのパーセンテージ

本当に私はこの本が好き。

いつまでも考えてしまいます(笑)

ネクロポリス - 珈琲とmilkのパーセンテージ

 

 

 

母なる街

帰る場所というのが私には東京しかないので故郷なのだと思っています。

東京は〜と貶されていると一面にしか過ぎないんだよと

フォローしたくなるくらいには愛着ある。

 

私自身の性格があるとしても愛着あるわりには東京について知らないのも事実です。

東京について知らなくても困らないからかもしれない。

過去、周りが東京について話すあれこれを知らず、

東京出身なのに知らないの?と言われて初めて知らないことを知った。

知らないの?と言われた場所はジョイポリスだったんですが

遊園地も沢山あるし私が行く用事がなかったに過ぎないよね。

 

物語内で繰り返される変わり続ける街というのは日々感じています。

江戸時代からだってそんなに遠くないのに様変わりしているのは

何も建築やまちづくりによるものだけではないと思います。

どんどん塗り替えられていくんだよね。

そうした中で長年残っているものというのは理由があるんだろうなと感じます。

東京の仕組み上、 歴史が残りにくい地もあるんでしょうね。

東京へ大人になった方がそれを感じるのか分からないですが

無機質すぎる人間味の薄い場所は私は落ち着かないなと思います。

で、好きじゃないから行かなくて私は知らないし

大概そういう場所は観光スポットなので東京を調べた人がよく知る場所です。

勿論無機質さが好きだというのも聞いたことがあるので

そういうのは相性なんですかね?

相性によって街が選べるほど街が乱立してるとも言える。

 

方言もそうですがルーツがあることがひどく羨ましいです。

 

 

エピタフ東京引用

57頁
生は一瞬のものであり、人生は無から生まれて無に還る。ひとときの憂き世のうさを忘れるために酒を飲もう、

 今日こそわが青春はめぐって来た!
 酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。
 たとえ苦くても、君、とがめるな。
 苦いのが道理、それが自分の命だ。
『ルバイヤード』より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html

 読み始めた時になぜこれが気になったか…覚えていない。

今読むと悲伝ですね。

 

75頁
好きなものを並べていくこと自体、確かにちょっと淋しい行為なのかもしれない。「好きなもの」は代わりのものでは満足できない。逆にいえば、「好きなもの」は常に喪失の予感を帯びている。「好きなもの」には喪失の痛みが含まれているのだ。

私は好きなものの羅列を喜びとしているので

一文目で喧嘩腰になりました(笑)

でも少なくともここに書いてある範囲読めば理由がわかります。

私自身、好きなものは手放さず好きな理由と

    好きなものを複数持っている理由くらい気づいています。

失うのが怖いんですよね、好きなものを。

失うなんて突然でいくらだって可能性はある。

何を失ったとしても勿論ひどく落ち込むでしょうけれど

好きなもののことだけを考えて生きているわけではないのが現実です。

好きなものを考える時間以外に自分がしたいことをするため、

幾重にも好きなものを重ねるんです。

私は幸運なことに今まで好きなものを失ったことがありません。

ただ有限だと分かっている好きなものは多々あります。

傷つき過去に思いを馳せるしかない未来は常に覚悟しています。

自分自身を先に失わない限り、確実に訪れるその時に向けて。

 

173頁
つまり、東京というのはほとんど記号のようなもので、映画の中の風景と同じく、ほぼ虚構の世界とイコールなのである。

東京という概念。

東京ならばあるだろうという大雑把な設定も

なんなく飲み込みリアルにしてしまう大都市。

 

180頁
考えてみれば当たり前のことだが、人はそれぞれ自分の地図を持っている。自分が必要とするものだけが各自の地図に書き込まれていて、それ以外は「省略」されているのだ。

そのとおりだなと思って。

私は劇場を基本にした地図を頭の中に持っています。

新たな物事に触れると今まで気づきもしなかったものが目に入る。

 

197頁
これは時間の感覚のせいもあるだろう。ヨーロッパなどでは時間は「降り積もる」感じがするが、日本では時間は後ろへ後ろへとさらさら流れていく。その場にとどまらず、「流れ去る」ものなのだ。だから、次々と目の前のものが姿を消していくことに慣れている。

自然と共生しているというのか…

三匹の子ぶたで言っていることは分かる、でも

日本では一概にそのとおりとはいかないんだろうなぁと読むたびに思うのです。

 

214頁
このところ、東京のどこを歩いても奇妙に懐かしく感じる。何を見ても、何を体験しても、強いデジャ・ビュを覚えるのだ。

デジャ・ビュに共感したことしか思い出せません。

 

324頁
「『いつまでも幸せに暮らしました』ですよ」

確かにいつまでもとこれから先のことを言っているのに

暮らしましたと終わったことになってるなと。

確かにこれは東京のEPITAPH(墓碑銘)なのかもです。