珈琲とmilkのパーセンテージ

苦かったり甘かったりするので無機質の筆や箱で切り取ってみる。

ミュージカル VIOLET-2024/04/07-

2024/04/07(日)ソワレ

東京芸術劇場 プレイハウス

 

キャストさん

ヴァイオレット:三浦透子

フリック:東啓介

モンティ:立石俊樹

ミュージックホール・シンガー:sara

ヴァージル:若林星弥

リロイ:森山大輔

ルーラ:谷口ゆうな

老婦人:樹里咲穂

伝道師:原田優一

父親:spi

ヤングヴァイオレット:

生田志守葉

 

STORY

1964年、アメリカ南部の片田舎。

幼い頃、父親による不慮の事故で

顔に大きな傷を負ったヴァイオレットは、

25歳の今まで人目を避けて暮らしていた。

しかし今日、

彼女は決意の表情でバス停にいる。

 

あらゆる傷を癒す

奇跡のテレビ伝道師に会う為、

西へ1500キロ、人生初の旅に出るのだ。

長距離バスに揺られながら、

ヴァイオレットは様々な人と

多様な価値観に出会い、

少しずつ変化していく。

長い旅の先に彼女が辿り着いたのは―。

ミュージカル『VIOLET』2024年公演|梅田芸術劇場

内容と関係ないことを先に呟いておくとビジュアル出た時から知ってたけどspiさんの父親の見た目がめちゃくちゃ好き(笑)カテコあたりの帽子取ったお姿とか余計にひえええとなるくらいかっこいい~~気になった頃のビジュアルに近いからかな!

 

固執して呟いてるなって分かると思うんだけど舞台での映像演出に身構えてしまうところがあります。舞台を観に来ているのに映像で説明されるのがあんまり好きじゃないんだと思う。Violet、過去写真や映像があくまで補いである好き方面の映像演出で嬉しい。舞台は状況に限りがある制約がある。その中でないものがある(あるものがない)のがとても舞台らしいと思っています。始めの水を感じる場面では舞台上に水はないけど円に足を踏み入れると水に触れた"ぴちゃん"という音と波紋が背景煉瓦壁に映し出される。水に足を踏み入れる光景そのものでなくてもそれで充分状況説明がなされていると思う。またヴァイオレットにとって大切な顔の傷が私たち観客の目には見えない(=顔に傷はない)。なぜヴァイオレットに顔の傷があると強く信じられるかといえば過去回想で傷ついた瞬間を見るからではなく、ヴァイオレットが顔に傷があることをとても気にしているからだと思う。

 

東京芸術劇場プレイハウスの壁面がレンガ造りなの前々から好きなのですが、舞台奥にレンガ壁があることで後方席からだと囲まれるような印象なのだろうなと思いました。三匹の子ぶたじゃないけどなかなか崩れない閉塞感があるのかな?

 

今回折角の初見だし見かけない限り自分から情報探さないようにして観てみたんですが、あらすじからしてもテレビ伝道師はオズかな…と思ってました。(なんでも叶えてくれるテレビ伝道師は表の顔で、実際になんでも叶えられるわけではない)テレビからジーザス・クライスト=スーパースター(JCS)の四季訳「昔のイスラエルにはテレビもないさ(Israel in 4 BC had no mass communication)」が思い浮かぶわけです。もう少しあなた(ジーザス)の声が届いたら状況が違ったかもしれないのに、みたくユダは歌うわけですけどテレビ伝道師を見てしまうと変わらないね。

JCSはそのまま聖書が題材だからキリスト教圏では「昔のイスラエルにはテレビもないさ(Israel in 4 BC had no mass communication)」はどのように受け止められるんだろう?と常々思ってました。もしテレビがあったら教えが広まって磔にならなかっただろうにと思う方はいるのか分からなかった。勿論そういう方もいるだろうけどVioletを観てみると老婦人にしても、モンティとフリックにしても怪しいものは怪しいという感覚は同じなのかなと思えました。

途中にある伝道師の"私の礼拝堂だ!"みたいな台詞から「ここは私の祈りの場だ」が思い出されて領域の主張は同じでもこうも純度や印象が違うものかと感心してしまう。

 

三浦さんヴァイオレット、立石さんモンティから比較してみると東さんのフリックはとても背が高い。その見上げる身長差は(ヴァイオレットが気にしていなくとも)おおよその女性が男性に力でかなわないと意識して行動していると思いますけど、常以上の警戒をする理由として充分で白人の無意識な恐怖を感じる手助けに思えました。ヴァイオレットの顔の傷が存在していても目に映らないのと同じような感覚で肌色の差は見えないけど登場人物は感じている。この私たち観客が見ている光景自体は日本の大変ざっくりとした言い方をしてしまうと同じような見た目の人たちが違いについてあれこれ言及、意識しあっている不思議な状態。何も変わりはないのにが前提で持てるのはフラットなとこもあるのかもしれない。(マンガ、アニメにありがちな色とりどりな髪色は実在の人々を表しているのではなくキャラ付けみたいな感覚)

いつも考えるんですが日本でテルマエロマエで言う平たい顔族である日本人のマジョリティさは無意識な傲慢さがあると反省します。残念ながらウェイターのようにわざと高圧的な方も多いし、自分自身もかなり無神経で無知だと改めて思いました。でもまだまだよく分からないと思います。

フリックと同じようにspiさんの父親、客席から見ていても衣装も相まって実際以上に身体が大きく見える。そのおかげで親子の光景以外にヤング・ヴァイオレットから見た大人の存在の大きさが感じられるようで複数視点を一度に見ている多面的な人物に見えました。

私、てっきり父親めちゃくちゃ悪い人物なのかと勝手に想像していたんですが、そんなことはなくて。お母さんについて話さない父親が不慮の事故とはいえ娘の顔に傷を残してしまったことを何も思わないわけがないと斧を確認することからも分かります。観ている時はお父さんが言葉足らずで後悔してるように見えたわけですが、過去回想してるわけだからヴァイオレットが後悔している、少なくとも心残りがあるから囚われているんだろうと思えてきました。

 

フランスは美醜の作品(鐘、オペラ座、BB)が多いよなぁと前々から思っていました。いずれの作品も醜いのは男性で母の愛情を受けていない過去があったりして。ヴァイオレットは女性で父からは愛情を受けていても母が幼いうちに亡くなっている。だからまぁヴァイオレットが固執しているのは母からの愛情なのかなとぼんやり感じたわけですが再度観たら考え直してみようと思います。なんとなくマンマ・ミーア!のお父さん探しに似た衝動をヴァイオレットのお母さんに対する問いから感じる気がするから。

(あとどうしても思い浮かぶのは黒マスクのジョオ)

ヴァイオレットは顔の傷を拠り所にしてるけど実際自分の身の回り見てもコンプレックスは色々だなということばかり。他人の私が全く気にならないと思ったとしても本人はいつだって真剣に悩んでる話は沢山あります。理想に際限はない、綺麗でありたい理由がみたされなければ。

 

ドリームガールズでもめちゃくちゃ好き✨と思っていたんですが今回見ても私saraさんめちゃくちゃ好き🙈

パワフルなミュージックホール・シンガー以外にもバイプレーヤー的に印象の違う複数役見られるのも嬉しい😂

 

色々な作品で娼婦は出てきて象徴的なだけに気になる。

 

チャーリーとチョコレート工場でテレビに手を伸ばしてチョコレートが掴めるのはすごい夢あるなぁとわくわくしたけど、画面に手のひらを付けて力を得ようとするのはテレビの距離があってこそ叶う類いの夢なの、夢が無さすぎる。一休さんか?と最初は思ったけど傷は残っていても癒えてるはヴァイオレットの願いはさておきそれは正しい。真実が一番傷つけるというやつかも。

 

ベッドの上で眠る二人は一般に幸せといえる光景なのにヴァイオレットが歌うのはおそらく永遠の眠りにつくだろう未来が待ち受ける目の前の人についてなの倒錯してていい。エンドにしても希望と共に傷も問題も抱えたままなの何もすっきりしなくて現代って感じある。訴えかけが強いですよね。

 

先入観かもしれないけどステージ上に"水がある"こと自体にわくわくする良さを感じる。実際に在るのも好きですが観客に在る(と信じる)ことを委ねてくださるの好き。他の場面でも想像力に委ねられているところ多くて(細かくは一人一人の想像は違っても)同じように見える演出が嬉しい。

 

汚れをハンカチでぬぐって拭き取る仕草をする父親が教えてくれたポーカー。生活のためであり、男達の中に女一人でも輪に入っていける術であり、力から身を守る術であり。コミュニケーションツールとしてのタバコを吸う快楽より生きていくための現実的な愛だと思う。

 

 

第2回 伊藤熹朔記念賞 受賞者決定! (jatdt.or.jp)

絶対行った方がいいとお見かけしていたので東京芸術劇場のアトリエウエスト伊藤熹朔記念賞の展示を覗いてきました☺️

こんなに素敵な舞台美術や衣装の舞台が沢山あるのか!と思うとわくわくする~

どんなに観たくても観られないジャック・オー・ランドもありました🙆

個人的には舞台上の水、土などの演出がとにかく好きで刺さるから観てみたいの沢山あった!

夜叉ケ池の衣装(メイク)がジャポっぽくてとても気になったんだけど私はたぶん白塗りが好きなところがある(笑)